
九.足るを知る
熟しきったブルーベリーの実が落ち始めるこの季節、オールドタウンのはずれにある小高い丘の上に、村の人たち全員が集まる一日がある。
アメリカ合衆国によって「労働者の日」と定められた9月の第一月曜日。祝日でもあるこの日に、村の人たちはニット帽を被り、セーターやダウンを羽織り、鎌や草刈り機、それからスモークサーモンやムースジャーキー、スナックやサンドウィッチ、ビールやウイスキーをリュックに詰めて、白い息を吐きながら、あるいは排気ガスをふかして砂埃をあげながら、丘へと向かう砂利道を上ってゆく。
道の脇にはブルーベリーが群生していて、わずかに枝に残った青い実を見つけては立ち止まり、茂みに手を伸ばす。一週間ほど前、ディーやキティと一緒にこのあたりにブルーベリー摘みに来たこともあった。
「昔は腰を下ろした場所から手を伸ばすだけで、バケツが一杯になったのにね」というのがディーの口癖だった。今は何ヵ所もブルーベリーの群生地を回らなければ、バケツは一杯にならない。
ずっと腰をかがめて、藪の中にブルーベリーを探す作業はなかなか体に堪える。それでも辛抱強く、ときには藪をかき分けながらひたすら探していると、次第にブルーベリーのありそうな場所がわかってくる。
ブルーベリー好きの君なら、取り切れないほどのブルーベリーに囲まれる嬉しさもわかってくれるかもしれない。宝探しのようなブルーベリー摘みに没頭していると、目を閉じてもあの青い粒の残像が瞼に焼き付いてくるんだ。ついには夢にまで出てくるという。
「一日中ブルーベリー摘むでしょ。それで家に帰って目を閉じると、ブルーベリーが浮かんで見えてくるのよ。それぐらい夢中になって摘んだ次の日はひどい筋肉痛になるんだけどね」
そう言いながら、キティも楽しそうに藪の中に手を突っ込んでいる。
「あの空港になった丘もブルーベリーやサーモンベリーがぎっしり生えていたのよ」
ぼくらの歩いている坂道から、キティの指差す方向に目を向けると、一本の木も生えていない小高い丘の端がわずかに見える。けれども今では、滑走路のために更地にされ、砂利が敷き詰められた上に小屋がひとつあるだけの裸の丘になり果てている。およそ空港というイメージからは程遠い。
ブルーベリーは以前ほど取れなくなってしまった、とみんな口々に言う。それでも、今も多くの家では、何度もいろいろな場所に足を運び、ひと夏にベリーをバケツ何杯分も集めて、ジャムを作り、瓶詰にする。
ブルーベリーだけではない。ラズベリーやブラックベリー。それからサケの卵のイクラのような色と形をしたサーモンベリーもある。ディーの家にも、たくさんの瓶詰されたベリーのジャムが棚にぎっしりと積み上げられていた。年に一度の実りの季節が再び訪れるまで、大事に使っていくのだ。
ジャムをふんだんに使ってディーやキティが作ってくれるパイやマフィン、パンケーキやアイスクリーム。どれも甘酸っぱい味と香りが口いっぱいに広がる、やリックになるような美味しさだった。きっと君も気に入ると思う。
ブルーベリーの群生を過ぎ、坂道を上りきると、色付いた白樺の森へと入ってゆく。見上げると、鮮やかな黄色に染まりつつある木の葉が、透き通るような青一色のキャンバスの上でくっきりと浮かび上がって見える。白い樹皮と黄色い葉に反射し、森の隅々まで散らばった陽光が、少し眩しい。
点々と広がる陽だまりの下、林立する白樺の木々のあいだに、白いペンキで塗られた木製の十字架が立ち並んでいる。塗り立ての真っ白なものもあれば、ほとんどペンキが剥がれ落ちて、地の色が露わになっているものもある。それぞれの十字架は、同じく白いペンキで塗られた膝丈の木の柵に囲われている。
そこは木々のあいだを点々と縫うようにつくられた墓地だった。
松、池、階段、墓石、卒塔婆。そんなぼくが知っている寺の墓からはかけ離れた空間だったが、不思議と違和感はなかった。白い十字架と柵は白樺の幹にすっかり馴染み、ずっと昔から森とともにあるかのように、森に溶け込んで佇んでいた。
村の人たちはさっそく、自分たちの家族の墓へと散らばり、草刈りを始めていた。ぼくはリックに連れられて、彼の両親と兄弟姉妹の墓に生えた草を刈った。草刈り機で一掃した後、それでは除き切れないものを鎌や手で取っていく。
小刻みに震えるモーター音、金属の刃が草木を切り倒していく甲高い摩擦音、それらに掻き消されないように腹の底から出てきたであろう大きな話し声と笑い声、あらゆる方向からこだまする足音が、これでもかというくらい辺り一面に響き渡っていた。
草刈りがひと段落し、ポットから注いだ紅茶を片手に一息ついていたとき、リックがぽつり、ぽつりと話してくれた。さっきまでの喧噪が嘘のように静まり返り、柔らかな風のそよぎに乗って小鳥たちの軽やかな歌い声が耳に心地よく届いてきた。
「僕らは6人兄弟だったんだ。僕が9歳のときに28歳だった兄が自殺した。8年前に姉がひとり自殺して、それに続いてもうひとり姉が自殺したんだ」
残ったのがリックとキティ、それからディーだった。
「僕の兄が自殺したのは、ある女性に暴力を振るってしまって、父親に顔を見せられなかったからなんだ。僕らの父はいつも、絶対に暴力はいけない、って教えていたんだ。でも、彼がしなくてはいけなかったのは、父に話すことだったんだ。自殺することではなくて」
ぼくは返す言葉が見当たらなかった。
そよ風がさらさらと木々の葉を擦り合わせ、光が草花の表面をゆらめくのを、ぼくはじっと見つめる。
「高校のときのクラスメートは21人いたんだけど、そのうち14人が自殺して、もうこの世にはいないんだ…」
そう言ってリックは立ち上がり、熱い紅茶をすすった。
「僕らは互いに話さなければいけないんだ」
一休みを終えると、再び作業に取り掛かる。自分たちの家族の墓がきれいになると、友人の墓を手伝う。友人といっても、小さなこの村では血の繋がった親戚も多く、家族と友人の境界は重なり合っている。自分たち家族だけ、と明確に区切れるような線引きはない。そして実は、日本人としてのぼくとネイティヴ・アメリカンとしての彼らの境界も。
というのも、90歳を超えた村の最高齢の女性リタは、実はハーフジャパニーズだった。父親が日系アメリカ人の二世だったという。両親が日本から渡米したのだろうか。もう100年以上も前の話である。
その彼は、ユーコン川を往復する客船のコックをしていた。ここヌラト村に寄ることも何度もあったのだという。やがてこの村の女性と恋に落ち、船に乗ることをやめてこの村でレストランを開き、家族を作った。その娘のひとりがリタだった。
大人になったリタは村から出ることなく結婚し、たくさんの子どもに恵まれた。その子どもたちがまた家族を作り、またその子どもたちが家族を作っていった。そうして今では、リタはひ孫のさらに下の孫までいる長老となり、この村には、クオーターや1/8、1/16の日本人が多くいる。
「ヒロ!そしたらおまえもいとこじゃないか!本当にいとこかもしれないぞ!」
こんな冗談を言われたりもした。
ぼくも真剣に考えたものだった。もしかしたらぼくも、そう遠くない昔にどこかで彼らとつながっているのかもしれない。
村総出の草刈りで、あっという間に墓地はなすがままの森から手入れの行き届いた庭へと姿を変えていった。
気付くと、ついさっきまで草刈り機や鎌が握られていた村の人たちの手には、ビールの缶やウイスキーの瓶や葉巻が収まり、サンドウィッチの詰まったタッパーやスナック菓子の袋やらが、点々と敷かれたシートの上で開けられている。みな、酒を飲みながら、食事をしながら、葉巻を吸いながら、亡くなった人の前に集い、思い出を語り合い、泣き笑っていた。
「…どうして! …どうして! …私の! …私の息子が! …私のかわいい息子が!」
リンダが、まだ陽光をまぶしく反射するほど真っ白な十字架の前で泣き崩れていた。途切れ途切れの悲痛な叫び声の合間は、呻き声と嗚咽で埋め尽くされている。ぼくは歩み寄ることも、離れることもできず、言葉にならないその声に押し潰されていた。
リンダの目の前に佇む十字架に記された文字を見る。
2019年。今年だ。そしてぼくと同じ20代だった。
いとこのリックが歩み寄り、しゃがみ込むリンダの肩を黙って抱き、立ち上がらせる。
「大丈夫だ、大丈夫だ」
穏やかにそう言いながら背中をさする。
そういえばリックは、リンダの家に押しかけては、家にこもりがちなリンダを半ば無理やり家から連れ出す、ということをよくやっていた。
「一緒に葉巻でもどう?」とリンダの家を訪ねて、少しソファーでくつろいだあとで「じゃあスモークハウスでも行くか!手伝ってほしい仕事があるんだよ」というのがお決まりだった。
リンダは面倒臭がって嫌がりながら、それでもまんざらでもなさそうに、最後はいつもリックと一緒に家を後にするのだった。
「リンダを外に連れ出して働かせないとね」
ぼくのほうを振り返って、いたずらっぽくウィンクするリックに、ぼくは笑って頷いたのだった。
リックに背中をさすられながら、涙は枯れ果て、呆然と立ち尽くし、十字架を前に深淵を見つめるリンダのまなざしが、あのときのぼくを思い出させる。道端に立ち尽くし、Mの残像を探しているぼく自身の姿を。いや、今もまだ探している。だから正確に言えば、十字架の前のに立ち尽くしたリンダは、そのまま今のぼく自身だった。
何度も、何時間も、Mの墓の前で、ぼくは過ごした。覆い被さるような松、底知れない池、立ち並ぶ墓石と卒塔婆。それらをくぐりぬけて、階段の脇を左手に、少し進むとすぐそこにMの墓はある。境内の景色は、今ではもう慣れ親しんだ実家のように、自分の一部に馴染んでいる。
何度足を運んだことだろうか。Mに会いたくて、そこに行けば本当に会って話ができるような気がして、ぼくは何度もそこに行っては墓の前に腰を下ろし、何時間でも座って話をした。道に迷ったとき、立ち止りそうになったとき、背を向けそうになったとき、道を外れそうになったとき、Mの墓石を前に座り込む。そうやって話をすると、Mはいつもぼくを立ち上がらせてくれた。
Mがぼくの唯一の友だちだった。
そう言うと君は寂しがったね。でももう今は大丈夫。君がいるから、ぼくはもうひとりじゃない。だけど、ぼくはひとりだった。
「ちょっと来て」
ルーシーに声を掛けられて我に返った。
後に付いて歩きながらあたりを見渡すと、古く朽ちかけた十字架よりも、真っ白で新しい十字架が多いことに気が付く。それらの多くは、20代や30代のものだった。
2つ並んだ、ある墓の前でルーシーが立ち止まる。ウイスキーをプラスチックの透明なカップに少し注いで、ぼくに手渡した。
「私の息子たちに一杯捧げてやってよ」
自分のカップにもウイスキーを注いで、ほんのりと赤みを帯びた顔で、いつもよりゆっくりとした口調でそう言って、ぼくのほうにカップを傾ける。
ぼくは頷いて乾杯すると、目の前の2つの墓にカップを傾けてから、一気に飲み干した。アルコールの強烈な香りが口に広がり、喉が焼けるように痛む。続けてルーシーも一気に飲み干した。今日だけは、多くの人がアルコールを口にした。
泣き笑い疲れ、やがて陽が淡くなり影が伸びてきた。
墓地での集いが一区切りし、それぞれ帰路についた後、夕暮れ時にもう一度みなで集った。この一年間の死者を弔うビッグ・ポトラッチだった。
コミュニティーホールの中、2列に並べられたテーブルには、いつにもまして豪華な料理がずらっと並べられている。カリブー、ムース、グース、ビーバー、サケ、あらゆる料理のメインは、この村を取り囲む森と川と湖からやってきたものである。
ここ数年で家族を亡くした人たちはみな、ホールの真ん中で床に座っている。椅子やテーブルがなかった時代の名残りだという。「家族を亡くしたら、亡くなった人の服を着て、自分たちで用意したものを食べるのよ」とディーが教えてくれた。
年に数回あるビック・ポトラッチのたびに、食事の量が減っていき、最後に残るのは水だけであるという。
2年後の最後のとき、家族を亡くした人たちは死者の服を身に纏い、死者となって村中を練り歩き、村の人たちは死者と最後の会話を交わす。そしてジャムやスモークサーモンや刺繍のほどこされた衣服など、様々なものを死者は配り歩く。そのときまで、誰かを亡くした家族は2年間、準備に並々ならぬ時間と労力をかけなければならないのだという。ただし、「妻を亡くした夫は、一年間狩りに行ってはいけないの。そのあいだ、誰かが彼のために狩りに行って、獲った肉をあげるのよ」とも。
きっと、忙しく毎日を過ごすことで、日常の現実に引き戻されてゆくということがあるのだと思う。死者に引かれてあの世へと連れていかれないように、張り巡らされた人間関係の網の目の中で、お互いに手を取り合い、かなしみを抱き合う。ぼくもいつか、君と、そんなふうにかなしみを、痛みを、分かち合うことができるだろうか。ディーの話を聞きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
ビッグ・ポトラッチが始まる前、ポールは遺族が一口ずつ、すべての料理を載せた紙皿を、火の中にくべた。リックのいとこでもある、40代に差し掛かったばかりのポールは、白髪の混じり始めた髪をかき上げながら、言葉や民謡をはじめとする文化の継承に普段は忙しくしている。
ポールは言った。
「燃え上がり、煙となったそれは、天に昇り、何倍にもなって亡くなった人々へ届くんだ」
他の人たちと一緒に、ぼくもリックとアリーと料理を自分の皿に取り分け、壁際に並べられたベンチに腰掛けた。
「最上、最高を目指しても、幸せは手に入らないんだ」
リックがつぶやくように言った。
「足るを知ること、それで幸せになれる」
みな皿を持ちながら歩き回り、いろいろなところに腰を下ろしては、互いに言葉を交わしている。
足るを知ること。
数えきれない家族と友人を失い、想像を絶するかなしみを抱えて生きるリックの、この言葉の重みをぼくは理解できているのだろうか。他に腰を下ろす場所のないぼくは、ビーバーの肉を噛みしめながら、何度も何度もリックの言葉をひとり反芻していた。
最上、最高を目指しても、幸せは手に入らない。
足るを知ること、それで幸せになれる。
最上、最高を目指しても———。
足るを知ること———。
コミュニティーホールを出ると、外はすっかり真っ暗闇に覆われていた。
ひんやりとした空気が気持ちいい。
上を向いて深呼吸する。
太陽が沈み切らない明るい夜、腹も心も満たされて、それぞれ思い思い帰路に就いた。部屋に戻って布団に潜り込む前に、ぼくとアリーとジョージはキティの家に寄って一服していた。
「昨日はアリーに送ってもらおうと思ったのに!ルーサンの家の前まで行って大声で呼び掛けたけど、だあれも起きる気配がなかったから、歩いて帰ったのよ~!」
怒っているのかどうなのか、キティの話が止まらない。
ルーサンというのは、アリーが家を追い出されたあと、ぼくらが転がり込んだ家の持ち主で、リックの友人である。
キティとルーシーは昨晩遅く、遊びに行っていた友達の家を出たあと、アリーに車で送ってもらおうと、ルーサンの家までぼくらを呼びにきたのだった。というよりも、送ってあげるよ、だから終わったら呼びに来てね、とぼくらは約束していたのだった。
何しろキティの家はオールドタウンの端にあり、遊びに行っていた友人の家やルーサンの家のある丘の上の住宅街からは、歩いて30分ほどもかかるのだ。おまけに住宅街とオールドタウンをつなぐたった一本の砂利道は、ほどんど灯りもなく、あたりはグリズリーやオオカミがうろつく原野が広がっているのだ。
「星ひとつ見えない真っ暗闇だったんだから!自分の手も見えないのよ!『あんたどこ~?』『あんたこそどこよ~?』ってルーシーとふたりでふざけながら帰ってきたのよ」
「そうそう、こうやって『あんたどこよ~』って」
ルーシーが目をつぶり、笑いながら両手をいろんな方向に伸ばしている。
「あんたこそどこよ~?あっ!いた!」
キティも目をつぶりながら手を伸ばし、ルーシーの伸びた腕を捕まえてケラケラと笑っている。
ふたりとも、全く怒ってなどいなかった。ぼくらが約束を完全に忘れてすっかり寝てしまっていたおかげで、歩いて帰る羽目になったにも関わらず。むしろそのことを楽しんでいたみたいだった。
「ほんと、大冒険だったわ!」
このころにはぼくらの申し訳ない気持ちもすっかり和らぎ、一晩の予期せぬ大冒険をみんなで一緒になって笑った。
ああ、君とのこんなひとときを、ぼくはどれほど見過ごしていたんだろうか。
小さな幸せが、ころんと転がっていた。