
十.幸運はやってくる
「幸運はやってきたかい?」
広葉樹の葉が色づき始めたこの時期、合言葉のように交わされるこの言葉を何度耳にしただろうか。
尋ねられたほうは、「いや、だめだったよ」と苦笑する。あるいは「ああ!そうなんだよ!一頭大きいのがな、川の上流にちょっと行ったところの左手にある小川のとこでさ…」などなど、意気揚々と話し始める。
幸運って一体なんのこと?って君は思うんじゃないかな。ぼくも最初はさっぱりだった。
だけどそれはたしかに幸運だったんだ。
「決して『狩りに行く』とか、『仕留めた』とは言ってはいけないよ」
夕食のムーススープとマッシュポテトを食べながら、ディーがぼくに言った。熱々のスープを頬張りながら、ぼくはディーの話に耳を傾ける。
「そしてね、例えばビーバーのときには、ビーバーの骨をそっと水の中に返して、『また帰って来てください』と唱えるのよ」
リックの姉妹兄弟で最年長のディーは、白髪の多くなった髪を、肩にかからない程度に短く切りそろえている。定年まで教師を勤め上げ、リックとジョージと飼い犬サンシャインの4人で暮らす家のあれこれを、今もほとんどすべて一人で切り盛りしている。
「でも、どうして?どうして『狩りに行く』と言ってはいけないの?」
悪気はなかったのだが、よそ者であるぼくからの無邪気な問いにディーは戸惑っていた。どうして、という理由なしに、ただそれは当たり前のことだった。
ディーはしばらく考えてからこう答えた。
「私たちの話す言葉を、動物たちが聴いているのよ」
ぼくは少し前に、村の教会の牧師であるブラザー・ボブから聞いた話を思い出していた。かつて、人間がこの世に初めて誕生したときのことである。
人間は裸で、鋭い牙も爪も持たず、2本の足で歩く奇妙な生き物だった。他の動物たちは「人間はこのままでは生き延びることができない」と思い、話し合いをした。そうしてムースが肉を、ビーバーが毛皮を、サケが…、それぞれの動物たちがそれぞれ持っているものを、人間にあげようと申し出た。おかげで人間は生き延びることができた。
だから人間が狩るのではない。
「幸運はやってくる」のだ。
もし自分たちがいい行いをしていれば、それを動物たちは見ていて、自分たちを助けるために自らの身を差し出しに来てくれるだろう。それは自然からの贈り物なのだ。狩りに行くのではない。ただ自然の中へ足を運ぶのだ。運が良ければ、贈り物を授かれるだろう。このような話だった。
キティも言っていた。
「どんな動物も、私たち人間の恐れや敬意をわかる、感じるんだよ。だから動物と接するときは、そのように接しなければならないのよ」
動物たちは聴いている、のだろうか。
「今日から行くぞ!」とリックは唐突に言った。
「あれ、でも今日からグリーナに行くって言ってなかったっけ…?」
あまりにも突然で、ぼくはその日が来るのを待ちに待っていたにも関わらず、思わず拍子抜けしてしまった。
なんといってもこの日はリックが村のチーフとして、アンカレッジまで出張で国際会議に出席して帰ってきた当日だった。しかもユーコン川を上流へ、ボートで1時間ほど走らせたところにあるグリーナという村に行く予定があると事前に聞いていた。グリーナは、この辺りでは最も大きい、町と言ってもいいほどの村である。まさか今日行くことになるとは。
突然決まった出来事に、ぼくとアリーは大慌てで準備をした。最低限の着替え、防寒具、雨具、食料、テント、斧やナイフ、ボートの燃料…。もちろん、突然行くと言い出したリックも一緒にばたばたと準備していた。ディーは、我が子の遠足前日のお母さんのように、家のあちらこちらから必要なものをかき集めてくれた。
それらをトラックで川岸に運び、すべてボートに積み込んでいく。何しろ一週間分の食糧は相当な量で、ボートの半分ほどが荷物で占領されている。そして最後に忘れずに、ライフルを積み込む。
さあ、いよいよ始まる。
ブルルン。
エンジンをかけ、船着き場からボートを出した。
空は青く晴れ渡っていた。
上流へと少し走らせると、見逃してしまいそうな小川へとボートを滑り込ませる。両岸から木々が覆い被さり、枝葉の隙間から透き通るような青が見え隠れする。今にも何かが出てきそうなほど辺りはしんと静まり、モーターをゆっくりと動かす規則正しい音だけが聞こえてくる。
「こんな大きなライフルどうやって撃つんだよ!?」
アリーが見よう見まねでライフルを担いでいる。おそらく普通の大きさの声なのだが、いつも以上に大きく聞こえる。
「貸してごらん。こうやって肩に当てて、脇を締めて…」
リックが即興レクチャーを始める。
「こんな大声で話していたら、『人間が来た!』と思って逃げちゃうんじゃないの?」と口出ししそうになるが、「幸運はやってくる」という話を思い出して、喉まで出かかった言葉を慌てて引っ込める。
「運だよ」とジョージも言っていた。
「どうやってムースを見つけるの?」とジョージに以前尋ねたときだった。
狩りのとき、ムースの鳴き声を真似て呼び寄せるという話を聞いていた最中で、ぼくとしてはそうした話をもっと聞きたかった。けれどもジョージは笑いながら即答した。それは運だよ、と。だから人の声が聞こえちゃうとか、きっとそういうことじゃないんだ。
ボートの縁から下を覗いてみる。
透き通った水がさらさらと流れ去る。木々と空を眺め、深呼吸するち、痺れるほどに澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。
運転したい、とアリーがリックにしきりにせがんで、とうとう折れたリックが運転席を譲る。エンジンをかけるのはこれで、スピードをあげたかったらこうするんだよ、と説明している。
「あんまりスピードをあげすぎちゃいけないよ。そのままゆっくり進んで。運が良かったら待っててくれるから…。おいっ!静かに!」
リックがボートの進む先を見つめている。
その視線の先、小川に覆いかぶさる枝葉の一本に、一羽のオジロワシが佇んでいた。ボートはどんどんと進んでいくが、じーっとこちらを見下ろしたまま、飛び立つ気配はない。ぼくらを乗せたボートはそのまま真下を通過し、オジロワシから遠ざかっていった。ぼくはカメラを構えるのも忘れ、わずか数秒の不思議な時間に浸っていた。
ぱっ、と視界が開けた。
小川が終わったのだ。湖のように凪いだ水面が広がっている。そよ風で立ったさざ波に、午後の陽が反射してきらめいている。ところどころで水草が水面近くまで伸びており、ぼくらは度々モーターを切って櫂で漕がなければならなかった。モーターが水草に絡まって動かなくなってしまうのだ。遠くに目をやると、水辺に枝がドーム状に積み重ねられている。
「あれはビーバーの巣だ。おい、左側を見てみろ!」
運転席からリックの指差す方向に目を向けると、2匹のビーバーが水飛沫も立てずにすいすいと泳いでいる。ビーバーの巣を通り過ぎて、幅が狭くなった水路をさらに進むと、再び視界が開けた。
突然、リックがエンジンを切る。
辺りがしんと静まり返る。
「なにかいるの!?」
「しっ!静かに」
リックが戸惑うぼくらを制止する。
湖の奥の岸辺、リックの視線の先を、ぼくもじっと見つめる。
沈黙の時が流れる。
あっ。思わず声をあげそうになる。
黒いものがわずかに動いているように見える。こちらを向いているようにも見える。ぼくはその黒いものの正体を見定めようと、じっと目を凝らす。
静かにオールを下ろし、音を立てないようにゆっくりと漕ぐ。次第にボートが近づいていく。頭の上にふたつ三角の突起。耳だ。ゆっくりとだがたしかに、その黒いものは動いている。
「2歳か3歳だな、ほらみろ、耳だけじゃなくて小さな角も見えるだろ」
リックが抑えた声で話す。
若い雄のムースだった。ボートが近づいても、逃げる様子がまったくない。さらに近づいていくと、ようやくムースはこちらに背を向けて歩き出した。けれども何か後ろ髪を引かれるように、立ち止まり、こちらを振り返る。
瞬間、すぐ後ろから耳をつんざくような破裂音が鳴り響く。
思わず身をすくめた拍子に、バランスを崩して転びそうになる。振り返ると、リックがライフルを構え直して、スコープを覗き込んでいる。ムースは背を向けると、再びゆっくりと、岸辺から森のほうへと動き出す。
もう一度、銃声があたりの空気を切り裂く。
同時にムースは静かに崩れ落ちていった。
水辺で倒れていたムースを、ロープで岸へと引き上げる。首を落とし、腹を裂き、皮を剥ぎ、関節を外していく。とてつもなく大きな肉の塊を、それぞれ袋に入れてボートに積み込んでいく。何世代にもわたって使い込まれてきた麻の袋だった。
「これを持っててくれ!」
割いた腹の奥底に腕を突っ込んでリックが引っ張り出してきたのは、ぼくの顔ほどもある大きなムースの心臓だった。リックとアリーが捌くのをただ横で見ていたぼくは、言われた通り、片手で上のほうを掴んで持つ。血抜きのためだという、リックは手際よく心臓に刃を入れていく。
血が弾ける。
ずしんとした重み、あたたかなぬくもりが、腕を伝う。
滑る刃を眺めながらぼくは思う。
この血が、重みが、ぬくもりが、ぼくのいのちをつないでくれるのだ。
忘れたくない。ぼくは手のひらに、腕に、全身に、この感触を刻み付ける。
すべてをボートに積み込み、村に戻る途中のことだった。
座る隙間もないほど山積みの荷物が揺れるたびに揉みくちゃにされて悪戦苦闘しているぼくを見て、リックが笑いながら言っていた。
「運を呼び寄せるにはな、怠けてたほうがいいぞ」
ぼくと違って君は怠けることの天才だから、運も味方につけてるんだろうな、なんてことを考えている場合じゃない。ぼくは頭から連想を振り払う。リックも冗談なのか本気なのか、とにかくそんなこと言ってる場合じゃない。ぼくはボートが曲がるたびに落ちそうになりながら、必死にボートの縁にしがみついた。