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十二.何者でもなく

丘の上から空を見上げる。霧と雲の切れ間に目を凝らし、遥か遠くに耳を澄ませる。黄金に色づき始めた葉が風に揺られ、わずかに擦れる音さえも聞こえてきそうなほど、辺りは静寂に包まれていた。

ぼくとジョージは未だか、未だかと、プロペラ音を探していた。

セスナ機の着陸時間が近づいてくると、村のすぐ横にある平らに均された小高い丘まで、ジョージに車で送ってもらった。その度にディーとキティと別れのハグをした。

もう三回目だった。
昨日から濃霧がとどまり、セスナ機はヌラト村上空を旋回するも着陸できないまま、出発した空港に引き返すことを繰り返していた。


「あれはおれが野生生物局で働いてたときのことだった。ある老いたオオカミがいたんだ。彼はすでに奥歯がなくて、普通ならもう亡くなってもおかしくない年齢だったんだ。みんな、彼はどこかで亡くなったと思ってたんだ」

待つ時間さえも楽しむように、ジョージが話し始める。

「だけどある日、生態調査でこのあたりの上空をヘリで飛んでたとき、おれは彼の電波をキャッチしたんだ。上空を旋回してあたりを探すと、彼は一匹の雌オオカミと、一匹の子オオカミと一緒にいたんだ。きっと、昔のパートナーが亡くなって、その雌オオカミが彼を用心棒と子守りのために必要としたんだろう」

頭上には未だに、重たそうな雲と霧が立ちこめている。じっと立っていると、フリースの上からじわじわと寒さが滲みてくる。首を引っ込めて、ポケットに手をぐっと押し込む。

「数年後、おれはまた彼の電波をキャッチしたんだ。彼はそれからさらに数年間生き延びてたんだよ。そして彼は川岸の雪洞の中で、一人静かに横になって亡くなっていたんだ。きっと彼は、これ以上自分が生きていけないことを悟って、自分から離れて一人で亡くなったんだろう。それが彼らの生き方なんだ」

「おれも生まれ変わるならオオカミになりたいよ」と最後に付け加えたジョージは、以前、「死ぬときは森の中でひとりで死にたい」と言っていた。
誰かに必要とされて生き、自分の死を見定めて一人離れる。この老オオカミの人生がジョージの人生と静かに重なり合っているような気がした。

そういえばMも、倒れたのは雪の中だった。スキー合宿の最中だったんだ。雪道をゲレンデまで1キロほども、橇に乗せられて救急隊員に引かれていった横を、引率の先生は走って追いかけたという。

見定める間もなく突然死の訪れが迫ったMはどんな思いで、切る風の冷たさを、滑る橇から伝わる雪面の波を、感じていたのだろうか。


陽が傾きかけている。

結局今回も、セスナ機は何周も村上空を旋回したが着陸できず、出発した空港へと戻っていった、とディーから連絡が入る。ぼくとジョージはディーの家に再び戻った。
 
セスナ機でなくても他に手段がありそうなものだが、村からフェアバンクスまでの道路はないのだった。森と川と湖に囲まれた村の周りにある道といえば、狩りやベリー摘みのためのトレイルだけ。

「残念だったわね。でも今日の夕方にもう一度トライするみたいよ。またロニーが電話をくれるって」

ひどく不安そうな顔をしていたのだろう。玄関を入ってきたぼくを見て、ディーが声を掛けてくれた。ロニーというのはヌラト村の空港の管理人で、ディーはロニーに最新の状況を聞き出したり、航空会社に運行状況や予約状況を問い合わせたり、一足先にフェアバンクス入りしているリックとアリーに連絡したり、あちこちに電話をかけてくれていた。

セスナ機に乗れなくて、フェアバンクスまで行けないのは他の村の人も同じである。欠航が長引く分だけ予約も繰り越されるので、やっと着陸できた飛行機に乗れるかどうか保証はなかった。だからできるだけ早く電話をして、席を押さえておかなければならなかった。

今日の夕方の便の予約は済ませてあったが、ディーは念のため明日の便の残り一席も予約してくれただけでなく、なぜか使えなくなっているぼくのクレジットカードの代わりに支払いまでしてくれた。

「昼ご飯出来てるわよ!じっとしてたって仕方ないんだから、とりあえず温かいうちに食べなさい!」

ディーに背中を叩かれて重い腰を上げ、もう当分はお目にかかれないと思っていた熱々のムーススープを、冷ましながら喉に流し込む。

突然、「人間の体の中でどこが一番偉いか知ってるか?」と、わけのわからない質問をジョージがしてくる。励ましてくれている、のだろうか。

「どこが偉いかだってさ!そんなこと考えたこともなかったわ」
ディーが甲高い笑い声をあげる。

ジョージは軽く咳払いしてから口を開いた。
「あるとき、いくつものパーツが合わさって人間の体が出来上がったんだ。そして、誰がボスなのか、論争が始まったんだよ。脳は、自分が体の動きをコントロールしているのだから自分がボスだ、と言った。心臓は、自分が体中に血液を送り機能を保っているのだから自分がボスだ、と言った。胃は、自分が食べ物を消化しエネルギーを保っているのだから自分がボスだ、と言った。肺は、自分が酸素を共有して体の機能を保っているのだから自分がボスだ、と言った」

ジョージがひと呼吸を置く。
ディーは「やっぱり脳じゃないかしら」と真剣に考えている。
どれも必要不可欠だよなあ、とぼくは思う。

ジョージは少しだけ間を置いてから続けた。
「そしてアス・ホール(Ass Holl=肛門:スラングでクソ野郎という意味)が言った。自分がボスだ!だけど誰も耳を貸さなかった。何をバカなことを言っているんだ、みんなはアス・ホールのことを一笑して、論争に戻った。怒ったアス・ホールは穴を閉めてしまったんだ。すると心臓は早く脈を打ち、脳はパニックになり、呼吸は早くなり…、みんな『わかった!わかった!おまえがボスだ!』って降参したんだよ。だからみんな何者にもならずに、アス・ホールのままでいいんだ」

何者にならずとも、クソ野郎のままでいい。
ジョージはにんまりと笑い、ディーは深くうなずいた。
 

そうこうしているうちに夕方の便の着陸時間が迫ってきていた。もう4回目になるお別れをディーに言い、ハグをする。キティの家にも寄って、同じく四回目になるお別れを言ってハグをしてから、ジョージとともに空港に向かった。明日の深夜には、予約しているフェアバンクス国際空港から日本への便が離陸することになっていた。それに間に合うように、この村を飛び立たなくてはならなかった。要するに、今回のチャンスを逃すと、もう後がなかった。

———ブーン。
セスナ機が降り立つ北東の方角を眺めていた僕の、左斜め後方から、微かにプロペラ音が聞こえてきたような気がした。

「聞こえた!?」
ジョージに呼びかけると、ああ!と笑顔で返してくれた。固くなっていた僕の表情も、思わずほころぶ。

しかし、それも束の間、プロペラ音はすぐ途切れた。音を探しましたが、どこからも聞こえず、あれは幻聴だったのだろうか、と疑い始める。そよ風に吹かれて枯れ葉の擦れる音が聞こえる。

ブーン。
再びプロペラ音が聞こえてきた。またジョージとふたりで目を合わせ、お互いに頷いた。今度は間違いない。

次第に音が近くなってきて、期待と不安で胸が高鳴り始めた。しかしまだ着陸できる保証はない。すぐ近くにいる、というだけだった。パイロットが着陸不可能と判断すれば、セスナ機はUターンして行ってしまう。不透明な状況だった。

風に流され、少しずつ、少しずつ、切れ間が大きくなっていく。覆い被さる雲からわずかに顔を覗かせる青色を、ぼくは祈るような気持ちでじっと見つめていた。

その時だった。ぱっ、と黒い物体が視界に飛び込んできた。

「ああ!」
思わず叫んだ。

どれほど、この時を待っただろうか。東京に、君の待つところに無事に帰れる、という安堵感が、期待と不安が入り混じった胸の高鳴りを、涙へと昇華していった。

パイロットは、丘の上の飛行場で待つぼくらのために、この濃霧の中を、危険を冒して飛んできてくれたのだった。そして濃霧はパイロットの前に道を開いたのだった。ぼくは、誰に対してかわからない、漠とした何かに「ありがとう」とひたすら呟いていた。
 
無事セスナ機が着陸し、荷物を積み込むと、本当に最後の別れのときがやってきた。

「連絡しろよ!」
そう言ってジョージがぼくを抱きしめてから、その大きくごつごつした手でぼくの手を包むように握ってくれた。

目頭に熱いものを感じる。それが何を意味しているのか、ぼくにはわからなかった。「必ず戻ってくるよ」という言葉が思わず口から漏れ出る。それだけしか言えなかった。

おう!とジョージが手を挙げる。

セスナ機に乗り込むと、やがてプロペラが回り始め、機体が動き出した。揺れが激しくなり、簡素で消耗を感じさせる機体の軋む音が大きくなり、外の景色の流れがだんだんと早くなっていく。

ふっ、と揺れが収まる。離陸したのだ。窓ガラスに顔を押しつける。2カ月間過ごした小さな村の家々と、その周りに広がる黄色の絨毯のような森、その絨毯に描かれた点と線の幾何学模様のようないくつもの小川と湖。この景色を忘れまいと、しっかり目に焼き付ける。

同時に、どうしようもない寂しさが襲ってくる。

いつの間にか、ぼくは好きになっていたのだ。リック、アリー、ディー、ジョージ、キティ、ジョニー、ここでは挙げ切れない彼らの友人たち、この場所、ここの食べ物、ここの日常。

何者かになることが、何者かであることが、人生の背骨を形作るのではない。ぼくらはみな、何者でもなく地を這って、日常を生きている。何者でもないひとりの人としてこそ、互いに出会い、背骨となる。ぼくは、ネイティヴ・アメリカンを探してアラスカに来て、何者でもない彼らと出会ったのだった。そうして彼らは何者でもないぼくを迎え入れてくれた。

またいつの日か、もう一度、そのように出会い直せるだろうか。
そのときは、きっと、ぼくはひとりではない。


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