批判者と行為者の間

人間は比較のプロだ。
切り分けられたケーキの僅かな大きさの違いに敏感だし、たった一品口にすしただけで今訪れている飲食店を再訪するか決めることができるし、様々な映画の出来について、あれこれお喋りもできる。
そのとき大抵、判断基準を意識すらしていない。

他のケーキの切れ端と比べる、過去訪れた飲食店の味や値段を思い出して比べる、過去鑑賞した同ジャンルの映画と比較する、という作業をほとんど全自動で1秒もかからず成し遂げている。
少ないリソースでまあまあの精度の決定を下せるこの人間の驚異的能力がなければ、これほど人類は発展しなかったに違いない。

しかし長所の裏には必ず短所が隠れている。
幾つかあるが一つだけ述べると、「行為者」を見失いやすいことだ。

例えばケーキを切り分けるという簡単な作業にしても、完全に均等にすることは不可能だ。また競争激しい業界で、利益が出るように切り盛りしつつ客の舌を満足させるという課題はいかにも困難だし、プロジェクト関係者のすべての利害を調整しつつ、娯楽が多様化してる時代にヒット作を捻り出す課程で、制作者達の涙の妥協があることも想像に難くない。

だが、人間は基本的に一度に一つのことにしか注意を向けられない。
よって目利きの批判は、よくこうしたプレーヤーの苦労、困難、置かれた状況を見落とすか、取るに足らないどうでもいいことのように扱う。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』という映画では、辛口で名の通っている演劇批評家は、演出家兼主演である主人公の決死の抗議を受け入れ、考えを改めた。彼女は目利きとプレーヤーとの間に広がる見えない深い谷に気づき、それを直視受容したのだ。
大いに見習うべきことだと思う。

不愉快な物を見たり体験したとき、自分なら、あるいはもっと能力の高い者なら上手くやれたと思いたくなるのが人情だ。しかし以上の理由から、どんなに下らないことでも、文句をつける者より行為者の方がエライ。私はそう思うことにして、必ず行為者視点から考えるようにしている。

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