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【地方創生】この国のかたち(1)-地方創生の始まり

私の親族が経営する古本店はあの司馬遼太郎さんが贔屓にしてくれて、軽トラックいっぱいの本を買って、「龍馬が行く」と「坂の上の雲」を執筆したそうだ。

先代の店主と司馬さんが仲が良く、司馬さんがご健在の時代には顔を見せて気さくに話をしてくれたらしい。

いまでもその店先には司馬さんの写真がある。そんな司馬さんのエッセイ「この国のかたち」から私もこの国のかたちについて思いを馳せたい。司馬さんなら今の地方創生に喘ぐ日本をどう見ただろうか。今一度探ってみよう。

1.導入:我々はどこから来たのか、何者か、どこへ行くのか

言うまでもなく、我々は日本人だ。スマートフォンを通じて日々大量の情報にさらされ、デジタル技術で世界中の人とつながり、個人間での仮想空間のやりとりが実世界の人間関係に影響を及ぼす世界に住んでいる。
中国に抜かれたといえども依然として世界第3位のGDPを誇る経済大国だ。

そして、失われた20年とも30年ともいえる長い経済停滞期にさらされながらも、若者が集中する東京はその繁栄を極めこの世の春を謳歌している。
そう、足元からガラガラと崩れ始めた急激な超少子高齢化の暗闇の予感に誰もがおびえつつも、これから急激に落下するジェットコースターレールの頂点で眼下に広がる絶壁から目をそらして儚い春に酔いしれている。

”我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか”

誰もが知るゴーギャンの絵画の表題だが、語源は協会問答だそうだ。

時代背景が大きく変わる現在の日本人にこの問答が必要なのだと感じる。我々はこれからどこへ行くのか。
今、地方創生で揺れる我々は一体に今まで何をしてきたのかを十分に理解せぬまま、Society5.0などの新技術に一縷の希望をかけ対処療法を繰り返すという先が見えない暗闇にはまっている。
私たちは何者なのか。それを地方創生の出発点とするため、解きほぐしてみよう。

2.現代の夜明け

オリンピックのサーフィンの開催地、千葉県は長生郡一宮町の釣ヶ崎海岸を訪れた。広大な九十九里の浜が遥か地平線まで延々と続く壮大な海岸の付近に玉前神社という神社がある。
波乗守というサーファーの安全と人生の荒波を乗り越えるご利益があるお守りが人気だという。

知っている人からすればもちろん常識であろうが、一宮(いちのみや)というのは飛鳥時代から明治時代初期まで1,100年ほどつづいた律令国(りつりょうこく)の地域のなかで最も社格の高いとされる神社であり日本全国に存在する。一宮町の地名もこのことに由来する。(※)

(※)一宮町の歴史
「一宮庄(荘)」・・・一宮の由来。
町の名前はいつ頃から使われているのでしょうか。玉前神社の神領をもとに成立した荘園は鎌倉時代から「玉前庄(荘)」とよばれ、現在の一宮町、睦沢町、長生村、岬町のほぼ全域にわたって治められていました。玉前神社が上総国の一宮だったため「一宮庄(荘)」の名前が広まり、現在まで「一宮」の名称が使われています。(一宮町役場HP

下記のリンクの先に、全国の一宮一覧の記載がある。是非ご自身が住まわれる地域を調べてほしい。

千葉だけ見ても、律令国は南から安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)の3つの地域があり、1,100年もの間日本人はこの国の形に慣れ親しみ、文化を醸成し、政治と経済を成り立たせてきた。

聖武天皇が741年に行政の中心に国府、国分寺、国分尼寺をおいた律令国がこの国のそもそものかたちなのだ。

さらに遡ると、この地方は総(ふさ=麻の意味)の国と言い、大和政権の頃、上海上国(かみつうなかみのくに)と下海上国(しもつうなかみのくに)に分かれ、支配層は大和直属のものが送り込まれたという。

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地域から国を見据え、現場で感じる様々な経過案をもとに分析して、お届けします。

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