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「東大モラル研究会」主宰、大いに語る

 2022年10月に不気味なポスターを貼り話題になり、11月以降は「コロナ対策の放棄」を訴えてたびたび顰蹙を買っている東大モラル研究会。そもそもこの会はなんなのか。そして彼らの主張は如何なるモノなのか。主宰に訊いてみると、上機嫌なままに大いに語ってくれた。(というテイ)

―はじめまして。

主宰:はじめまして。主宰の者です。

―この会はいつ頃からスタートされましたか?

主宰:個人的に思いついてTwitterアカウントを作ったのは9月下旬、学内にポスターを貼って会員を募り始めたのが10月中旬。それからはTwitterで時々呟くくらいでしたが、実際に会員が入ってきて重い腰を上げたのが11月の下旬という感じです。

―会を立ち上げたきっかけは何ですか?

主宰:恥ずかしい話ですが、話の合う友達づくりですかね。

―話の合う友達づくり?

主宰:東大に入ってみて気づいたんですが、話が合うヤツが全然いない。私は大江健三郎や村上龍やアナキズムや福本伸行やダウンタウンやブルーハーツの話がしたいのに、理系学生ならまだしも、文系学生ですらその辺を全然知らない。この前、大江の小説を取り扱う講義のガイダンスで、教員が「大江の小説を読んだことある者は?」って訊くと、びっくりするんですが、手を挙げたのは20人に1人とかそんなもんでしたよ。わざわざその講義に来てるクセに、です。…で、彼らがその代わりに何を話すかというと、就職や院進のことなんですよ。まだ大学生活の前半戦だってのに。

―それは驚きですね。

主宰:でしょう。でも、ある時期から、考えを改めました。そもそも俺が東大に期待しすぎていたんだ、と。文系で大江を知らなくてもいいじゃないか、村上龍を知らなくてもいいじゃないか、だって東大入試でそんな知識は要らないといえば要らないんだから。その後ようやく「話の合う友人は偶然見つけるモノではなく自分で探さないといけないんだ」という結論になり、「じゃあサークルを立ち上げて会員を募ってみよう」となったわけです。

―新入会員が来る見込みはありましたか?

主宰:ありましたよ。実は2022年の夏に外山恒一という活動家の主宰する勉強合宿に行ったのですが、そこに居た学生は皆賢かったですから。東大にも彼らのようなインテリは潜んでいるに違いないと思っていましたよ。

―なるほど。既存サークルに入ることは考えなかったのですか?

主宰:その時期既に「コロナ対策放棄派」であった私からすれば、いまだにオンラインでミーティングをやっていたりマスクを着けっぱなしで喋っていたりするようなサークルに入る気分になりませんでした。人文学系のアレコレを学ぶなら会話、というか密なコミュニケーションはあった方がいいに決まっているのに、内心恐れてもいないハズのコロナの対策をして密なコミュニケーションを遠ざけてしまう弱腰っぷりに呆れてしまいました。

―そして、ご自身でサークルを立ち上げる、と。「モラル研究会」という名称はどのような経緯で?

主宰:コロナ対策にせよ、オリンピックにせよ、当時盛り上がっていた国葬云々にせよ、議論の場において持ち出される「モラル」という言葉に違和感があり、それならいっそ「既存モラルを疑う」というモラルを標榜して名前に冠してしまえばいいと思いましたね。

―違和感、というのは?

主宰:いまよく使われるモラルという言葉のほぼ全てが「和を乱さない」「決まったことに文句を言わない」「他人に迷惑をかける可能性のあることはしてはいけない」…みたいな、「●●してはいけない」系の、人の行動を抑制するものばかりなんですよね。それはマズいだろうと。詳しくは「活動の指針」というnote記事の前半を読んでほしいんですが。人間には活気が必要なのに、いまの世の中、特にコロナ禍においては明らかに人の活気を蝕む、活気を殺す方向に動いていますよね。そしてその流れを支えているのが「モラル」という曖昧なワードなわけです。私としてはこの「モラル」という言葉を疑わなければ、前には進めない気がした。だから敢えて「活気を蝕むモノには抵抗せよ」というポリシーを、「いま叫ぶべきモラル」として掲げた。ある種の価値紊乱(かちびんらん)ですね。

―それと文学や思想、政治を学ぶことはどのように結びつきますか?

主宰:先ほど価値紊乱という言葉を使いましたが…。紊乱とは、既存道徳を乱すことなわけです。で、文学にせよ思想にせよ、人文学の歴史とは紊乱の歴史なのです。紊乱がなければ新しいムーブメントは起きないし流行しない。『価値紊乱者の光栄』という本を出したのは石原慎太郎ですが、彼が芥川賞を取り戦後初と言ってもいいメディアスターになれたのは彼が『太陽の季節』という小説で新しい若者像を描き、そこから生まれる価値観を表現しようとしたからです。そういえば、石原の『灰色の教室』という小説のエピグラフ(文章の巻頭などに引用される銘句)がいまだに印象に残っています。コクトーからの引用でした。「この年頃にあっては、欲望が彼等のモラルなのだ」という一節。厳密にはこの後も数行続くのですが…。ともかく、人文学とは既存モラルあるいは既存システムへの疑念なしには進まないわけです。

―たしかにそうかもしれません。ポスターを貼ったのが10月とのことですが、反応はどうでしたか?

主宰:周囲に隠して始めたサークルだったので、周囲からの直接の意見は分かりませんでした。ただ、後に話を聞きに来た学生は「みんな怪しい怪しいと言って話題でしたよ」と言っていましたね。

―反応としては悪くはなかった?

主宰:悪いと言えば悪いですかねぇ。結局ポスターきっかけで話を聞きに来たのは5人にも満たなかったです。

―考えられる原因は?

主宰:2つあると思いますね。1つは、当時「ふつうの学生サークルと偽って宗教組織へ…」的な事例が注目を浴びていたこと。モラル研究会もそれを疑われていたのでしょう。そんなことしないのに。強いて言えば、反自粛運動への参加を求めることはあるかもしれませんが、別に無理にとは言わない。もう1つあるとすれば、活動の動機とか具体的方針が全然定まっていなかったことですね。あまりにも大雑把すぎた。

―いまも大雑把ではありませんか?

主宰:多少改善したとは言え、それはその通りですね。会員が増えたら考え直します。

―そして11月に新入会員が生まれると。

主宰:えぇ。話を聞けば彼も外山恒一主宰の合宿出身者だった。別の回ですけれど。ポスターに「アナキズム」の文言を入れていたから、彼は「このポスターを貼ったのは合宿出身者に違いない」と勘づいて連絡してきたようです。中々のインテリです。

―11月というのは、「コロナ対策放棄」を主張するツイートが目立つ時期でもあります。

主宰:その手のツイートを始めたのは新入会員が来る少し前のことですね。当時はもうポスターの効果が薄まってきた頃でして、別の宣伝方法を探していた。そこでTwitterを利用することにしました。私は元来Twitterで主張することが好きではありません。1ツイートでたかが140字しか使えませんし、即時性もない。主張あるいは反論の場として向いていない気がしていた。でも仕方ありませんでした。

―開き直りみたいなものですね。

主宰:まさしくそうですね。反自粛的なツイートで離れていく学生もいるでしょうけど、サークル活動をする時はコロナ対策なんてどうせ無視するんだし、まぁいいか…と。

―ツイートへの反論もあったと思います。

主宰:当初はフォロワー10人とかその程度でしたからね。単に反自粛を訴えていても増えないので、対立立場にある連中のツイートに噛みつき、反論されたらこちらも反論し…ということを繰り返していた。別に反論されてもいいんです。というか、「コロナ対策放棄」なんてのは感染リスクを上げることに繋がるわけで、コロナを恐れる人からすれば嫌がらせみたいなモノですし、反論が来ても当然だと思っています。ただ、こちらとしても現在の過剰なコロナ対策は嫌がらせみたいなモノですけどもね。結局、私の主張というのは性質上「全員の賛成を得る」ことは不可能ですが、それを織り込み済みで、それでもなお賛同者を増やすためにツイートするわけです。

―フォロワーは増えましたか?

主宰:増えましたね。「一市民からの意見」的なツイートだと反応は良くないんですが、「一東大生からの意見」的なツイートだとかなり反応が良い。リアリティがあるといいんですかね。去年の11月半ばから現在(1月半ば)までの2ヶ月で500人近く増えましたよ。

―よかったですね。

主宰:ありがとうございます。

―現在の活動はどのような感じでしょう。

主宰:そうですね…。なんせ会員が少ないですからね。不定期の読書会と交流会があるくらいで…。反自粛運動の賛同者を得る方面の活動はそれなりにできていますけどもね。この前も東大の准教授とお話させてもらいました。

―全体としては難航している?

主宰:どっちかと言えばそうですが、悲観していませんよ。会員数が増えれば活動頻度は増えるだろうし。いまは貯金の時期ですよ。

―なるほど。会員が増えたら、どのようなことをするつもりですか?

主宰:まずは勉強会ですね。過去あるいは現在話題を集めた/集めている文学作品、漫画、映画、事件、思想、政治運動…の類を勉強してしまおうじゃないかという試みです。これは定期的にやりたい。あとは反自粛運動ですね。この会を立ち上げた動機の1つですし。でも、これについては活動を強制しませんよ。人材が集まれば会誌の発行なども考えていますが、これはまだ定かではありません。

―今後に期待ですね。

主宰:ありがとうございます。

―続いて、反自粛運動について詳しい話に移りたいと思います。なぜ反自粛運動を行うのですか?

主宰:自粛が嫌だからです。当初は別に私がやる必要もないと思っておりました。ところが、学生生活の一部がコロナ対策によって犠牲になり、今後も犠牲になり続けるはずなのに、黙ってマスクを着けている大学生があまりに多すぎて、私がやらないとずっとこのままではないか?という気分になり、決心しました。

―自粛生活はもう終わったように思いますが。

主宰:自粛というのは、厳密にいえば「自分から行いを(節制する方向に)改めること」ですから。別に2020年の4月みたいに、家にひきこもることが自粛ではない。マスク着用だってイベントの中止・延期だって飲食店の営業短縮だって自粛なのですよ。それが嫌なんです。

―なるほど。しかしたとえばマスクは医学的効果があると言われています。

主宰:そりゃあそうでしょう(※個人の感想・偏見です。マスクの効果を僅かながら認めておりますが、科学的根拠はないので信用しないように!)。別にマスクの効果を疑っているわけじゃありませんよ。ただ、重要なのはね、「我々は医学的に正しいことだけをやっていかないといけないのか?」ということなのですよ。まだまだ勉強したいと言う子を「もう深夜だから」と言って無理やりベッドに寝かしつけたり。吸いすぎると身体に悪いからと言って夫の大好物のタバコの箱を捨てたり。医学的正しさを盾にして、安全を盾にして、「こう生きたい、こうありたい」という個人的な意思を曲げようとする行為には断固反対です。フーコーとかアガンベンとか読めばその辺についてハイレベルな理論を知ることが出来ると思います。

―健康が損なわれてもいい?

主宰:厳密には身体的健康ですよね。過剰なコロナ対策によってストレスを覚え、精神の健康を損なった人は山ほどいるでしょう。ならば、精神の健康のために多少はコロナのリスクを背負ってもいいと考える人は多いと思いますよ。ついでに言えば、マスクを外したところでコロナに感染して症状に苦しむ可能性は上がると言えば上がるでしょうが、100パーセントではないですよね。けれど、コロナ対策の過剰さへのストレスというのは、いま現在、100パーセント間違いなく現れ出ているモノなのです。少なくとも私は。「コロナのリスク」と「コロナ対策へのストレス」、どちらが鬱陶しいかと言えば後者なのです。

―他人のコロナへのリスクを上げることについてはどう思いますか?

主宰:そこは難しいですよね。私のリスクならまだしも、他人となると。しかし私は、「本気でコロナを怖がっている人」などいないのではないかと思っていますよ。本気でコロナを怖がっているなら、居酒屋やカラオケには行かないだろうし、セックスもしないだろうし、大学の授業は全部オンラインにしてもらうだろうし、公共交通機関にも乗らないだろうし、マスクだってあんな薄っぺらいモノではなく顔全体を覆う高級なモノを買うだろうし…言い出せばキリはないですが、それが本気なのです。でも、実際にそこまで本気の人間なんていないでしょう。いたら考えを改めるつもりです。

―なるほど。ワクチンについてはどう思いますか?

主宰:個人的には反ワクではありません。私は複数回接種済みです。よく考えたら子供のころからよく分からない注射を打たされてきただろうし、不健康な生活もしてきたし、別に数回打つくらい大したことないだろうというくだらない理由でした。でも、反ワクの人達の気持ちは痛いほどよく分かります。

―なぜ?

主宰:反ワク連中は厚生労働省ではなく「なんか怖い」という感情を優先している。これは私がマスクよりも「マスクをしたくない気持ち」を優先させているのと同じなのです。そしてこのこと自体は何ら責められることではない。個人的感情を科学で抑えつける方が問題です。ついでに言えば、ワクチンの有効性に疑いを持つこともそこまでおかしい話ではないですし。シュクラバーネクの『健康禍』という本を読めば分かりますが、医学の正誤が後々ひっくり返ることはたまにあるわけです。

―となれば、反ワクの人にワクチンを打たせるのは不可能?

主宰:不可能だし、さっさと諦めた方がいいと思います。独裁国なら可能かもしれませんがね。家や職場に居るところを連れ出してワクチン接種会場にでも行かせるとか。でも日本だと無理。

―未接種者がいる中で、コロナ対策の放棄に向かっていくと?

主宰:先ほど言った通り、本気の本気でコロナを恐れている人がいるとは思えませんし…。政府医師会は、「国民の多くにワクチンを打たせた状態で徐々に規制を緩和していく」みたいなヌルいこと言っていますが、非・独裁国家の日本でのワクチン接種など伸び悩むに決まってますので、そんな計画が上手いこと達成されるとは思えません。達成されるとしても、何年かかることやら…。結局、政府医師会の作戦というのは「コロナワクチンを皆が打ち終わるまでは我慢しとけよ」というメッセージが裏側に込められていますよね。これって、既にワクチンを5回接種した層からの反発を招くんですよ。なぜ彼らはワクチンを打ったかと言えば「ワクチンを打てばコロナ禍は終わると思ったから」ですよ。

―たしかに。

主宰:まぁ実際そういう風に宣伝されていましたからね。ところが蓋を開けてみると反ワクが意外と多くて、上手いこと政府医師会の「作戦」が進行しない。というか、失敗している。そうなれば、コロナ禍に疲れたワクチン接種者も2つのグループに分かれる。1つは堀江貴文のように「反ワクへの敵意」を存分にアピールする人たち。もう1つは、「そもそも政府医師会の作戦って破綻してるんじゃないか?」と疑い始める人たち。で、コロナ禍が長引けば長引くほど、つまり反ワクの意思が固いことが明るみになればなるほど後者の勢力が存在感を増すに決まってますよね。そして彼らはこう考える。「政府医師会を無視してやろう」と。

―ここで繋がってくるわけですね。

主宰:そうです。その結論って、最初から「反ワク・反感染対策」みたいな、要は最初からコロナを無視して活動している人たちの主張と、大筋としては一致しているわけです。つまり…①政府医師会を信頼しなくなったワクチン接種者(=親ワク・反感染対策派)②そもそもコロナを無視している人々(=反ワク・反感染対策派)という2つのグループが合流して、「反自粛派」という一勢力を形成するわけです。

―この勢力は今後どうなりますか?

主宰:増える一方でしょうね。反ワク・反感染対策派は今更他の立場に移ることはないでしょう。親ワク・反感染対策派は時間が経てば経つほど増えるし、減る理由が見当たらない。となれば、やはりトータルで見れば増えることになる。

―増えると、どうなりますか?

主宰:政府医師会の呼びかけている「感染対策の注意」みたいなモノが続々と無視され始め、もはや効果を失い、注意それ自体が消えていくのではないでしょうか。群衆蜂起って感じですよね。今年の夏が勝負でしょう。我々はそのお手伝いをしていることになるのでしょうね。

―なるほど、期待ですね。

主宰:そうですね。

―今後に期待しております。本日はありがとうございました。

主宰:ありがとうございました。

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