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視線の違和感

映画『赦し』を観て。

いじめの事実をなぜ話してこなかったのか。
観終わったあと、色々と妄想を膨らませてしまった。

まず考えられるのは、殺してしまった子(恵未)、そして彼女の両親を守るためだろう。それが彼女なりの償いで、背負っていこうと決めたのだと解釈できる。

だけど、それだけだろうか。
事実を供述する直前に克(被害者の父)に向けた視線。謝罪と敵意が入り混じったような視線だった。あのシーンによって、他の理由も考えざるを得なくなる。夏奈の恵未への憎しみは獄中でも継続していたのではないか。

殺害事件の被害者遺族と、夏奈のいじめ被害からみれば加害者側の人間だと捉えられる。自分を苦しめる者の親を恨んでしまうことは想像ができる。彼らに事実とは異なる誤認をさせ続けること。彼女だけが、真実を知っていること。彼女があの状況下で優位な側面を持てる唯一の方法だったのかもしれない。

その立場を捨てることを彼女は選択した。契機になったのは、法廷に立つ克と澄子の姿だった。恵未と彼女の両親は別人格であること、そして彼らの苦しみを目の当たりにして、赦すことを決断した。

赦すことは、赦さない状態を手放すことだ。そのとき何かを喪失する。怒りや憎しみはエネルギーの源でもあり、赦すことで獄中での苦しみと戦う気力は失われてしまう。変化への恐れ。

証言台に向かう彼女は、感情の境界にいた。克と澄子への敵意と謝罪、真実を背負わなくてもよい安堵と変わってしまうことへの恐怖。どちらが本意ということはなく、どちらの感情も生じてきてしまうような状況。とても違和感のある、魅力的なシーンだった。

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