【短編小説】売れない本の一ページ

 「・・・・・・45²であり、九九の総和(1×1+1×2+1×3・・・9×7+9×8+9×9)であり、1³+2³+3³+4³+5³+6³+7³+8³+9³であり、9+9+9+999+999か・・・・・・ふむふむ、へえ、端正だな。人に例えるなら、悲劇のヒロインを張れるとびっきりの美人ではないが、主人公の妹なり、厄介な敵の幹部ぐらいに置いておくとストーリーの展開に華が出るような・・・・・・え? なに? ちょっと違う? うーん、じゃあ、喫茶店でコーヒーとパンケーキを運んでこられたら、正面から見た顔に眼はいかないものの、ついつい去り際のふとした横顔を視線で追いたくなってしまうような、そのぐらいには整っているんじゃないか? うんうん、そうだろうそうだろう。よぅし、じゃあ仕方ない、その几帳面な性格に免じて、2025年からは見やすさを重視して、段落のはじめにインデントでも付けてやるとするか―――」
 文机の前に腰を据えてからかれこれ六時間近くぶつぶつと独り言を唱え続けていた<売れない小説家2>は、そこでふと言葉を切り、ドロドロとした脳みその底に巣食う似非えせ文豪たちとの会話を止めた。
 ハッとして手を止め、顔を上げる。
 耳だ。耳を澄まさなければ。降ってきた直感の呼びかけに応えるように、耳にすべての神経を搔き集める。
 ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ・・・・・・。
 遠くから、砂利を踏む靴音が近づいてくる。今年に入ってからは、特に耳にするようになった音だ。
 <売れない小説家2>は現在、ただでさえ緻密ちみつな技巧を用いて編まれた一本のネクタイをさらにエルドリッジノットで結び付けたような、つまり複雑に複雑が絡まり極まったような事情にキリキリと首を絞められていて、ここ半年近くもの間、人ならざる霊獣たちの息遣いが張り詰める山奥にて息をも殺さねばならぬほどの隠遁いんとん生活を強いられていた。
 ここは町外れに峩々ががそびえるとある霊峰の頂付近。鬱蒼と生い茂る原生のやぶの合間にひっそりと佇む神社の、その社務所。普段は神主をやっている学生時代の友人と、彼の両親、それからアルバイトで塾講師との掛け持ちをしている医大生の巫女さん、せいぜいこの四人がそろそろと小石を踏みしめる小気味良い音だけが響く、深閑とした秘境である。
 年末年始には山の麓に広がる里から大勢の参拝者が訪れたため、境内を出入りする多くの足音がサクサクと竹林に響いていた。だが、正月が終わってしまえば存在ごと忘れ去られたも同然で、今では物淋しさすら覚える静謐せいひつな冷気が漂っている。
 ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ・・・・・・。
 人間の靴の音だ。
 年に一度の繁忙期を終えた今、獣以外にこんな辺鄙へんぴな場所までやって来るのは、毎朝の運動のついでに参拝を欠かさない敬虔けいけんな里の主、タヱ子おばあちゃん。それか、冬眠せずに里まで下りてきて暴れ回っている熊の駆除依頼を押し付けられた猟友会の狩人たち。あるいは、鬱屈した生活から逃れたくて都会を飛び出したものの、いざ田舎に来てみると有名な観光スポットを巡り終えたら途端にやることがなくなって暇を持て余してしまい、その末に消化試合のテンションでふらふらと迷い込んできた観光客。そのいずれかである。
 ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ、カツ・・・・・・。
 しかし、何かがおかしい。
 逃げたほうがいいかもしれない。焦燥を煽るその直感は、無条件で信じなければ、と思わされるほど<売れない小説家2>の胸を強く叩いた。
 タヱ子おばあちゃんはもう今朝の参拝を済ませている。ついさっきこの眼でその姿を視認したから、それは確かだ。だとしたら、通りすがりの猟師か、旅行が下手な観光客か、どこかで冠婚葬祭か何かの祈祷きとうをあげ終えた友人が出先から帰ってきたか、巫女さんが境内の掃除でも始めたか・・・・・・。
 ひたひたと近づいてくる足音。その正体について可能性をいくつか思い浮かべてみながら、<売れない小説家2>は胡坐あぐらを解いてパイプ椅子からすっくと立ち上がり、足を忍ばせて逃げる支度を始めた。
 そして、逃げようとしている自分がいることに遅れて気づき、驚いた。
 ああ、なんてことだ。<売れない小説家2>は、まだ姿も見えぬその足音の主をよく知っていたのだった。
 足音はまだ遠い。
 おそらく鳥居をくぐって、まだ参道を十数歩ほど進んだところだろう。ジャッ、ジャッ、カツ、とその足の持ち主はこの上なく慎重に一歩一歩を踏みしめやって来る。なぜこのような畏怖に囲まれた辺境の地に足を踏み入れるに至ったのか、自分でもまだ理解し切れていないような、そんな戸惑いが靴音に滲んでいる。
 とにかく、境内の西側奥、本殿の脇に建つこの社務所まではまだ距離がある。<売れない小説家2>は足音から訪問者との間合いを計り、自身を幽閉していた控室の扉を開け、中廊下に出た。爪先立ちでそろりそろりと歩き、廊下の左右にしつらえられている和室のふすまをすっと薄く開け、どこかに友人か彼のご両親か巫女さんかがいないかを探す。
 望みも虚しく誰も見当たらない廊下を玄関のほうへ渡ると、お守りを販売している社務所の店頭に巫女さんの姿があった。客も神主もいないのだからスマホでもいじっていればいいものを、彼女は生真面目に販売棚に並ぶお守りや御朱印帳の列をきれいに整えたり、木目に溜まるほこりをハンディモップで丁寧に拭き取ったりと忙しなく動き回っている。
 「あー、ちょっといいかな、スミレさん」
 店先の境内に姿をさらさぬよう廊下の柱の陰に身を隠しつつ、<売れない小説家2>は美少女ゲームのサブキャラじみた巫女さんの華奢きゃしゃな背中に声をかけた。
 「ああ、<売れない小説家2>さん。ようやくお目覚めですか」
 巫女さんはくるりと振り返ると、失礼を悪びれる素振りもなく首を傾げて微笑んだ。
 「いやいや、もう朝から働きっぱなしだよ」
 「ほんとうですか? その割には、さっきまでやけに寝言がうるかったような・・・・・・」
 「いやいやいや、そんなはずはない。こう見えても、ぼくはプロ作家の端くれだからね。ようやく新作の骨格が組み上がってきたところだよ」
 「へぇ、じゃあ原稿見せてくださいよ」
 掃除の手を休めることなく言う巫女さんに、<売れない小説家2>は両手を震わせて大袈裟に仰け反った。
 「いやいやいやいや、何を言うかお嬢さん。ぼくは頭の中でしっかり結末まで完成させてからじゃないと筆を執らない主義だからね。到底まだ言葉に直せる段階ではないしだな、第一、きみを物語の第一発見者にしてしまうわけにはいかんのだよ」
 「はあ、そうですか・・・・・・と、ここまで一昨日とまったく同じ会話ですよ<売れない小説家2>さん」
 「はて、そうだったか」
 「ええ、強いて違う点を挙げるとするなら、一昨日と比べて<売れない小説家2>さんの声が恐ろしく小さいことぐらいでしょうか。どうしたんですか、雪女に夜這いでもされて風邪でも引きましたか?」
 「おいおい、一介の医大生であり塾講師であり巫女であるという、心身ともに模範的に振舞わねばならぬ立場にありながら、夜這いなどという下劣な言葉をその口に喋らせるんじゃあないよ・・・・・・」
 ジャッ、ジャッ、カツ、ジャッ、ジャッ・・・・・・。足音が随分と大きくなってきて、<売れない小説家2>は剣幕だけを残し、さらに柱の陰に身を縮こまらせて声を潜めた。
 すると、ようやく巫女さんさんが作業の手を止め、顔だけ傾けていぶかしむような一瞥いちべつを流してきた。
 「体調が悪いわけでも、小説を書き終えたわけでも、ついに執筆を放棄して、社務所の柱との一体化を試みる修行に目覚めたというわけでもないのだとしたら、そんなところでいったい何をされてるんですか?」
 「ああ、よくぞ聞いてくれた。そう、ぼくはずっとそれを待っていたのだよ。その問いを伝えるために使われる声がきみの喉で誤作動なく凝縮され、一握の息吹とともに潤った唇からぱちんと弾かれるのをね」
 「・・・・・・」
 「・・・・・・悪かった。さすがに今のはキモかった、謝るよ・・・・・・と、そんな話をしている場合ではなくてだな、ほら、い、今、境内に誰か入ってきただろう?」
 <売れない小説家2>の慌てふためきようをんでか、巫女さんはお守り売場の店頭から境内を見渡すと、ようやく身体ごとひらりと向き直って、彼と相対した。額に重たく垂れる漆黒の前髪がつくる影の帯に、はちみつ色をたたえた瞳が二輪、しなやかに伸びる睫毛まつげをするりとほころばせて咲いている。そこから放たれる禍々まがまがしい眼光は、半年ほど前のいつの日かに重力に逆らうように突然山裾から転がり込んできた神主の友人を名乗る胡乱うろんな男をぞわりと震え上がらせた。
 「お知合いですか?」
 はいかいいえかの受け答えをひとつ飛ばして、巫女さんは片眉をわずかに引き上げて問うてきた。
 「ああ、可能性は大いにある。黒足袋たびに下駄を履いていて、紫紺しこんの着物に墨色の外套がいとうを羽織った、晩年の川端康成をすこしばかり若返らせたような銀髪の中年男性ならばな。財布をひっくり返して、小銭入れにパンパンに詰まってる硬貨を賽銭箱へ全額投げ落とすような真似をしたらなおさら―――」
 ジャラジャラジャラジャラ・・・・・・チャリン、チャリン・・・・・・チャリン・・・・・・。
 <売れない小説家2>は口をあんぐりと開けたまますべてを止めた。巫女さんも、突如として金属音とともに爆ぜた拝殿のほうへ視線を奪われたまま硬直した。
 再び静寂が地上に圧し掛かった。そのなかを、乾いた鈴の音がカランカランカランと吹き抜ける。それから、柏手かしわでを打つ音がパン、パン、と大きく二度、矢のように両耳を貫いて横切っていった。
 巫女さんがロボットのような挙動で顔を引き戻し、左目だけをすがめ、固く結んだ唇を舌先でひと舐めした。彼は何者か、というその沈黙の問い掛けに答えたい気持ちはあったが、<売れない小説家2>はゆっくりと頷くだけに留めた。
 「いいかい、スミレさん、一回しか言わないからよく聞くんだ」
 「はあ」
 「今、律儀に神様へ挨拶を済ませた彼は、拝殿の石階段を降りると真っ直ぐきみの元へやって来て、こう訊ねるだろう。『ちょっと、つかぬことをお伺いしてもよろしいですか。ここに、<売れない小説家2>という男が居候などしておりませんかね?』と。そうしたら、きみは、ああ、解っているね? こう答えるんだよ。『はあ、<売れない小説家2>さんですか。たしかにいらっしゃいましたけれども、実は二日ほど前から行き先も告げずに出払っておりまして』と。『取材に行くだとか何とか、それだけ言い残して、以来ずっと音沙汰もないものですから、どうにもわたくしには判りかねます』とね。あとは適当に雑談に花でも咲かせて、逃げる時間を稼いでくれたらなお助かる。いいかい。頼んだよ?」
 <売れない小説家2>はそう言うと、二、三歩後退あとずさりつつそよそよと身を翻し、社務所の中廊下を爪先だけで跳ねるように、コソ泥さながらの隠密な足取りで引き返していった。

 新入社員みたいな眩い白のワイシャツに包まれたその冴えない背中が、襖の隙間からぬるりと和室の一室へと消えていくのを、スミレはなにか可哀想なものを見るような眼差しで見送った。そして、掃除を再開しようとした、まさにそのとき、無病息災のお守りがずらりと並ぶ店の先に、一人の客人が立った。

 こちらに向き直った若い巫女は妙に落ち着き払っていて、<腕利きの担当編集者1>は抱いていた確信が揺らぎ始めるのを感じた。
 「こんにちは」
 巫女は目礼して言った。柔く澄んでいながらどこか棘のある、鎮守ちんじゅの森の深淵から借りてきたような、怖ろしさすら覚える声だった。
 「ああ、どうも」
 <腕利きの担当編集者1>は一瞬だけここへ来た要件を忘れ、おろおろと視線を彷徨さまよわせてうつむいた。
 所詮はアルバイトだろう。だが、雰囲気だけでこれほどまでの畏怖をまとえるものなのだろうか。何か、人間の眼に映ってはいけないような、自然を超越した在り難い者の御姿が、誤って顕現してしまっているのではないか。そう思わされるほどの何かが、巫女の瞳の底に煌々こうこうと宿っているような気がしてならなかった。
 「お守りをお探しですか」
 「ああ、いや・・・・・・」
 言い淀んでしまった<腕利きの担当編集者1>は、泰然たいぜんとした心地を取り戻すため、数秒を稼ごうと丁寧に並べられたお守りの売場を眺めた。そういえば、看護師を目指している娘の国家試験が二、三週間後に迫っているのではなかったか。自分の家族の内情なのにあまり把握していないことを申し訳なく思いつつも、かろうじてそんなことを思い出し、学業成就のお守りに手を伸ばす。
 「千二百円、頂戴いたします」
 高い、と思いつつ、バイト敬語ではないところに感心もしつつ支払いを済ませ、<腕利きの担当編集者1>は本題に入ろうと小さく咳払いをした。
 「・・・・・・ああ、ちょっと、つかぬことをお伺いしてもよろしいですか」
 「はい、何でございましょう」
 「ここに、<売れない小説家2>という男が居候などしておりませんかね?」
 「はあ、<売れない小説家2>さんですか・・・・・・」
 巫女はお守りを手渡すと、そのまま両腕を組み、やや左斜め上に視線を放り投げた。
 「ええ、ここの神主さんのご友人だとかで、そのよしみでここによく来られると聞き及びましてね」
 「あの、失礼ですが、あなたは?」
 「ああ、申し遅れました。私、<実在しない出版社>の書籍編集者で、彼の担当に就いております、<腕利きの担当編集者1>と申す者なんですけれども」
 <腕利きの担当編集者1>は着物のふところから名刺入れを取って、名刺を一枚差し出す。琥眼の巫女は前のめりになってそれを受け取り、分厚い前髪を指で払って、カードに記されている文面をしげしげと眺めた。
 「本の、編集者さんですか・・・・・・」
 「ええ、まあ」
 「<売れない小説家2>さんの編集を担っておられる・・・・・・」
 「はい・・・・・・」
 <腕利きの担当編集者1>が反応を待っていると、好奇の眼差しがカチリと重なった。
 巫女が顔を上げて、<腕利きの担当編集者1>の目を見つめているのだった。彼女の視線だと気づくまでに遅れがあったのは、その瞳のなかに、一瞬だけ、別の何かが見え隠れしたような錯覚を抱いたからであった。まるで、巫女の瞳を借りて、森に棲む大いなる何かが、宇宙とおなじ量のひと刹那だけ、ジッと、こちらを品定めしていたかのような・・・・・・。
 「逆、だよなぁ・・・・・・」
 巫女が呟いた。
 「はい?」
 「ああ、いえ、なんでも。ただ、装いはもちろんのこと、歩き方とか所作とか、言葉遣いとか、<腕利きの担当編集者1>さんのほうがよっぽど小説家っぽいなぁ、と思って、つい」
 次に口を開いた巫女に神然とした面影はなく、その顔にはあどけなさの残る笑みが咲いていた。
 「ああ、なるほど、これのことでしたか」
 <腕利きの担当編集者1>は内心ホッと安堵して、名刺入れを懐に仕舞いつつ、着物の両袖を広げてみせた。最後の審判を下す者に、前を横切ることをゆるされたような心地がしていた。
 「ええ」
 「いや、なに、編集者の駆け出しのころに就いて勉強させてもらっていた大先生が数年前に亡くなりましてね、ありがたいことに、その方の遺品を譲り受けたものですから、こうして仕事をしている合間は気を引き締める意味合いも込めて、スーツの代わりに袖を通すことにしているんですよ」
 「へえ、良いですね。お天気も相まって、とてもお似合いですよ」
 「そうですか、いやぁ、お世辞でも嬉しいですな。ですが、まだ着こなすには風格が足りないようで、職場では人間を包んだ風呂敷が歩いているのかと思った、って部下から冗談交じりにわらわれる日々で」
 「あらそうですか。出版社なんて絶対にお忙しいはずですのに、和やかなようで何よりです。南部紫根染めと言いましたっけ、盛岡のほうの」
 「ああ、そうです。見ただけで判るんですか」
 「いえ、半分ぐらいは賭けでしたが、もしかしたら、と。原料となる紫草むさらきの乱獲やら明治維新さなかの新製法流入やらで一度は途絶えてしまったけど、ニ十世紀初頭に岩手で技術を蘇らせたとかなんとか」
 思い出す素振りも見せずにすらすらと話す巫女の口振りに、<腕利きの担当編集者1>は素直に感嘆した。
 「すごいな、お若いのによくご存知で。失礼ですが、学生さん、ですよね?」
 「はい」
 「なにか、民俗学か何かを専攻しておられるんですか?」
 「ああ、いや、専門は医学なんですけど」
 「へえ、お医者さんの卵でしたか。では、出身が盛岡のほうとか?」
 「いえいえ。友人たちと学食でお昼を摂っていたときに、文学部の子が東北に残る民俗文化のレポートに苦戦してまして、雑談交じりにその講義資料をちらっと覗いただけなので、すみません、詳しいことは何も」
 勝手に知識をひけらかしてしまったような雰囲気を本当に恥じるように謙遜するものだから、<腕利きの担当編集者1>は好感も微笑ましさも越えて、この人を見習って自分もえりを正さねば、という純粋な尊敬の念さえ覚えた。
 「いやいや、そのひと時だけの記憶をこうしてパッと引き出せるなんて、羨ましい限りですよ。きっと良いお医者様になるなぁ」
 「あはははは、物覚えの良いことだけが取り柄なものですから。でも、ありがとうございます」
 よく印象が変わる子だ。口元に拳を当ててコロコロと笑う巫女からは、今時の女子大生とは思えないほどの余裕と気品が満ち溢れている。授業終わりに先生に質問しに行き、勤勉なふりをして好意を買って成績を上乗せしてもらうという小学生のような手法を未だに駆使してなんとか落単を免れているらしい看護学士の我が娘があわれに思われるほどである。
 本当に頭の良い人とひと時の談話を楽しんだことで妙に心が満足してしまい、危うくここを訪れた目的を放棄して部署へ帰ってしまいそうになった。<腕利きの担当編集者1>はひとしきり笑いつつ、グッと下駄に力を込めて、きびすを返しかけた足をなんとか引き留めた。
 「ええっと、あ、そうそう、<売れない小説家2>の所在ですが、ご存知ありませんか」
 「ああ、そうでしたそうでした。その彼なんですがね、たしかにいらっしゃいましたけれども、実は二日ほど前から行き先も告げずに出払っておりまして」
 「ええ、なんと」
 「はい、取材に行くだとか何とか、それだけ言い残して、以来ずっと音沙汰もないものですから、どうにもわたくしには判りかねます」
 困ったように苦笑する巫女の口振りは至って自然で、彼をかばって嘘を吐いているようには見えない。
 「そう、ですか・・・・・・」
 <腕利きの担当編集者1>は顔をしかめて低く唸った。
 「探しておられるようですね」
 「ええ、それはもう、ここにいないのだとしたら他にどこを当たればいいのやらと憤慨したいぐらいには探し回りましたよ」
 「連絡は・・・・・・」
 巫女は言い切る前に察したようで閉口し、<腕利きの担当編集者1>も項垂うなだれて首を左右に力なく振った。
 「弱ったなぁ・・・・・・二日前まではここにいたんですね?」
 「はい」
 「よく出て行かれるのですか?」
 「いえ・・・・・・ああ、いや、わたしはバイトなので週末しかここへ来ることはないんですけど、でも、<売れない小説家2>さんを見ている限り、平日もどこかへ取材に出払っている様子なんてなかったですし、たいていこの奥の控室に籠っていましたよ」
 巫女は社務所の内部のほうを指して言う。
 「でも、今はいない、と」
 「はい」
 「彼はそこで生活しているのですか」
 「ええ、今は」
 「いつごろから」
 「さあ・・・・・・半年前ぐらい、でしょうか」
 半年前。思えば、もうそんなに経つのか。<売れない小説家2>と連絡がつかなくなってからの年月を痛感し、<腕利きの担当編集1>は怒りやら嘆きやら失望やら、様々な負の感情が胸に渦巻くのを感じた。耳にしたことはないけれども、気分的には、祇園精舎の鐘の声が遠くで鳴り響いていてもおかしくはなかった。
 「彼の友人の神主さんは、今どちらに?」
 「昨晩から今朝方にかけて、東京のほうで仕事でして」
 「出張ですか」
 「ええ、なんか、心霊番組におはらいを行う祈祷師として呼ばれているんだそうで。撮影が終われば一瞬で戻られると思いますが」
 「一瞬で、って、東京からここまでひとっ飛びというわけにはいかんでしょう」
 「でも、どんなに遠くで仕事があっても、早いときは本当に速攻で帰ってくるんですよ、あの人。冗談抜きで、瞬間移動の能力でも持ってるんじゃないか、って疑ってしまうぐらい」
 場を明るくしようとしてくれているのか、巫女はおどけたように笑って言う。
 どうする、と<腕利きの担当編集者1>は自分に問い掛ける。電話は繋がらないし、メールの返信も来ないし、一目会おうものなら姿をくらまされるのみ。担当しているのは彼だけではないし、やるべき仕事は山積み。今日は夕方に二人の作家さんと打ち合わせを控えている。本当のところ、失踪した<売れない小説家2>を探して全国を出張し回っている暇は一秒もない。
 居場所は判ったのだ。それだけでも収穫である。
 年明けには一度ミーティングをする約束だったのだけれど、これ以上追いかけ回していても仕方がない。この巫女さん、それか、彼の友人だという神主さんのほうがいいか、とにかく、今彼と直接会って話せる人に伝言を残して、彼からの連絡を待とう。
 いや、伝言すら必要ないか。
 「<売れない小説家2>は、元気でやってますか」
 ふとそんな疑問が湧いてきて、<腕利きの担当編集者1>は誰に訊ねるでもなく口に出してみた。
 「ええ、元気だと思いますよ。日がな一日控室に籠りきりみたいだから、不健康そうではありますが」
 当然ながら自分への質問だと捉えた巫女が答える。その顔に浮かぶ慈悲深い微笑を見て、<腕利きの担当編集者1>も笑い、自分を納得させた。
 「そうですか。なら、まあ、いっか」
 「いいんですか」
 「仕方ありません。彼は中途半端な原稿を見せたがらないタイプだから、もうすこし待つことにしますよ。といっても、次の締め切りに間に合わなければ、その次はもうありませんがね」
 「ええ、崖っぷちじゃないですか」
 「そう、彼は崖っぷちなんですよ。当たり前のことだけど、本は作家だけの力で世に出ているわけじゃありませんから。作家が納期を守れなければ、そのあとに控えている校正やデザインなんかの仕事もどんどん遅延を強いられることになる。プロの肩書きを背負って小説を書く以上は、小説家として以前に、社会人として、ある程度のところで妥協して仕事を回してもらわないとね」
 「<売れない小説家2>さんがお戻りになったら、<腕利きの担当編集者1>さんがいらしたこと、伝えておきましょうか」
 巫女が気を利かせて言う。
 <腕利きの担当編集者1>はすっと左腕を掲げて振り、外套の着心地を直すように肩を回した。それを切り上げの合図に巫女に背を向け、鳥居に向かって歩きだす。
 「いやいや、いいですよ。上には居場所は判ったけど出会えなかった、とだけ報告しておきます。あとは担当がまた変わるか、もう契約不履行ということでうちとのやり取りは辞めにしてもらうか、会社の判断に任せることにします。それぐらい追い詰められてるってことは、本人が一番よく解っているはずですから」

 <腕利きの担当編集者1>なる人物が鳥居をくぐり抜けて石階段を下っていくのを見送ると、スミレは一息ついて社務所の奥へ引っ込み、<売れない小説家2>が消えた和室の襖をすっと開けた。

 「ぼくはそんなに追い詰められていたのか!」
 畳一畳分の冒頭に身を潜めていた<売れない小説家2>は目を丸くし、<腕利きの担当編集者1>が去り際に残した一言を告げにやって来た巫女さんをまじまじと見つめた。
 「いや知らなかったんですか・・・・・・」
 「知らなかった・・・・・・知らなかったぞ。知るわけがないだろう、そんなこと。だが、うーん・・・・・・、やはり、正月明けの打ち合わせをすっぽかしたあれがまずかったか・・・・・・」
 今まで付き合ってきた<実在しない出版社>の編集者を一人ずつ思い返してみても、<腕利きの担当編集者1>は寛容なほうだし、相性は悪くないと感じていたのだが、仏の顔も三度まで、さすがに堪忍袋の緒が切れたか。
 とにかく連絡を取らねば、いや、その前に、何か言い訳を、いや対策を、いや言い訳を、考えなければ。<売れない小説家2>がさらなる先延ばしの一手を思案していると、巫女さんが怪訝けげんそうに眉をひそめて口を開いた。
 「・・・・・・というか、どうなってるんですか、それ」
 「どうって?」
 「なんで、畳をめくった床の下から別世界がはじまってるんですか!?」
 巫女さんは<売れない小説家2>が肩まで浸かっている畳一畳分の冒頭をガッと指差して叫んだ。
 「ああ、これか。今さっき、きみが彼と雑談に花を咲かせてくれている間に創ったんだ」
 「創ったぁ!?」
 「ああ、万が一にでもきみが裏切って、彼を社務所の奥へ上げてしまったときのことを想定してな」
 <売れない小説家2>は湯船から上がるように畳の縁に手を突いて、畳一畳分の冒頭から和室へと這い出た。
 「言ってる意味がよく解らないんですが・・・・・・なんですか、<売れない小説家2>さんって、魔法使いだったんですか」
 巫女さんは恐る恐る和室に足を踏み入れて、<売れない小説家2>の隣に立ち、しゃがみ込んで畳一畳分の冒頭を覗き見た。
 「魔法使いだなんて、ファンタジーじゃないんだから」
 「で、でも、現に、畳の下に別の世界を創ったじゃないですか」
 「魔法も何も、こんなのは自然とできようになるもんさ。締め切りに追われるだけの地獄の日々を送っていれば、誰だってね」
 幾度となく切望した能力を本当に宿してしまった両の手のひらに視線を落として、<売れない小説家2>は力なく笑う。
 「信じられません。こんなの、超能力ですよ」
 「いやいやいや、ぼくからしてみれば、正確にくぎを打つ大工も、かっこよく髪をセットしてくれる理髪師や美容師も、それこそきみが目指している、ケガや病気をきれいさっぱり治してくれるお医者さんだって、みんな超能力を使っているとしか思えないよ」
 「なんか、コーヒーとパンケーキの匂いがしてきますよ。カウンターから一番離れたところにある窓際のテーブル席に、文豪みたいな格好の人たちが座っています。ゆったりとしたおしゃれなジャズピアノも掛かってて、喫茶店でしょうか」
 巫女さんが畳一畳分の冒頭に向かって鼻先を立て、口元をするりと綻ばせる。その顔に残る少女のあどけなさが眩しくて、<売れない小説家2>は目をすがめて俯いた。
 「冒頭でそんな話をしたからかな。待っていれば、2025みたいな美人な店員さんが美味しいコーヒーとパンケーキを彼らの席まで運んできてくれるだろう」
 「正面から見た顔に眼はいかないものの、ついつい去り際のふとした横顔を視線で追いたくなってしまうんだから、視点である彼らが座っているのはカウンター席じゃなくてテーブル席なんですね」
 今までは表面上の言葉だけを追っていたらしい巫女さんが、頭を悩ませていた難問の解法にようやく納得したように言う。
 「ぼくの想像した世界にうまいこと入り込めていれば、そこまでは見えていてほしかったかな」
 とは言いつつも、読者がどんなふうに小説を読んでいるのかなんてのは、別に<売れない小説家2>の知ったことではない。
 「文豪みたいな彼ら、無垢材の丸テーブルを囲んで何か話していますね。なんでしょう」
 「なるほど、無垢材の丸テーブルだったか・・・・・・」
 「え?」
 「ああ、いや、なんでもない。どうせ大した内容じゃないさ。見た目こそ文豪だが、なんせ似非文豪だからね」
 <売れない小説家2>は、物語の骨組みを考えているといつもひょっこりと現れては余計な野次を飛ばしてくるおなじみの似非文豪たちを見下ろしながら答えた。
 「偽物なんですか。であれば、仮装大会の帰りとかでしょうか」
 巫女がさらに想像を重ねてくる。
 「店内に、他の客はいるかい?」
 「ええ」
 「服装とか言葉遣いとかは?」
 「現代っぽいですよ。窓から見える景色も都会っぽいし、休日っぽい」
 「へえ、天気は?」
 「うーん、判りません。都会の休日の喫茶店だと、個人的には雨が降っているような気もしますが・・・・・・」
 巫女さんが言うと、畳一畳分の冒頭にしつらえられた喫茶店の窓の外にしとしとと雨が降り始めた。いや、もしかすると、言う前から雨は降っていたのかもしれない。
 「降っているじゃないか」
 <売れない小説家2>が言うと、巫女は奇異な眼差しで見上げてきた。
 「<売れない小説家2>さんが降らしたんですか?」
 「何を言う。降らしたのは間違いなく読者であるきみだろう」
 「そんな憶えないですよ!」
 「ぼくだって、冒頭で天気の話をした憶えはないぞ。なんなら、喫茶店の所在地や内装、客層の雰囲気、2025みたいな店員さんの風貌に関しても、すべて読者の想像に委ねたつもりだったんだが」
 「そこまで想像してから次の文に進んでる人なんていないですって」
 巫女さんから放たれた衝撃の事実に、<売れない小説家2>は愕然とした。
 「・・・・・・信じられない。じゃあなんだ、きみは言葉しか拾っていなかったのか? 言葉なんて、ただの言葉じゃないか。言っちゃ悪いが、それ自体には何の意味もない」
 「そんなことはないでしょう」
 「『2025みたいな喫茶店の店員さん』という意味不明な言葉を前にして、読者はいったい何を眼にしたんだ? 何も想像しなかったのだとしたら、長ったらしい言葉が羅列されているだけの小説を、どうして人は金を出してまで読んでるんだ?」
 「誰かの想像した世界観に没入するのを純粋に楽しみたいんですよ」
 「であれば、これほど情景描写に欠けた文章だと、もう誰もついてきていないかもしれないな」
 「それはそうかもしれません」
 巫女さんは躊躇なく言う。
 「くそ、やはりこれもボツか。『喫茶店の窓際の無垢材の丸テーブルを囲んでいる似非文豪たち』は、三、四人の男だったに違いないのに・・・・・・」
 「それは、『喫茶店』という場所設定と『丸テーブル』という言葉から想起される規模感がそれほど大きいものじゃないからだし、『文豪』という響きは『医者』とか『政治家』とかと同様に、男性のイメージと強く結びついているからで・・・・・・」
 巫女さんのメタ的な言語学解説を聞き流しつつ、考えてみればみるほど、自分の生み出してきた文の山がとことんスタージョンの法則に洩れないガラクタであるという確信は<売れない小説家2>の中で深まるばかりだった。
 「スタージョンの法則って?」
 「それは読者の声だろう。ぼくは何も言ってないぞ」
 「おっと失礼・・・・・・あ、コーヒーとパンケーキ、運ばれてきましたよ」
 思いどおりに動いてくれないおてんば娘にやきもきしながら、<売れない小説家2>は話を本筋に戻そうと捲ったまま放置していた一枚の畳に手を伸ばした。
 「さて、ひとまず一難去ったことだし、そろそろこの冒頭に蓋をしようと思うんだが」
 「まだ冒頭も冒頭じゃないですか。これからどんな展開になるのか、気になります」
 「言っただろう。これぐらいの寄り道をするのはやぶさかじゃないけれども、ぼくは本来、頭の中で物語が完結するまで筆を執らない主義なんだ。さあ、畳のそっちの端っこ、持ってくれないか」
 「このままノリと勢いで駆け抜けちゃえばいいのに」
 喫茶店の隅で談議する謎の文豪風の男たちを名残惜しそうに見つめながらも、巫女さんは立ち上がる。
 「もうちょっと蓋をしておいて、世界ごと火にかけていれば、物語も煮詰まってくるさ」
 「締め切りまでに煮詰まりますかね」
 「そう、それが問題なんだよなぁ・・・・・・」
 そういえば<腕利きの担当編集者1>に居場所を突き止められたのだった、と思い出して、<売れない小説家2>は肩を落とした。
 「悪い夢だったということにできませんかね。<売れない小説家2>さんの創造の力で」
 「プロの座を潔く降りられれば、そんな展開へ強引に捻じ曲げることもできるんだろうけど」
 境内に流れる冷ややかな空気に取り留めもない会話を溶かしながら、<売れない小説家2>は巫女さんの手を借りて、一畳分の空間にこしらえた避難スペースに慎重に畳を被せていく。
 「こんなところに世界を創っちゃって、宮本みやもとさんに怒られませんかね」
 「心配には及ばんさ。ぼくはすでに、この境内のいろんな場所に世界を創っているし、友人もそのことには勘付いているみたいだからね」
 「え、そうなんですか」
 「ああ。あいつは自分の実家を想像上で増改築されるのを許容できないほど懐の狭い人間じゃないよ」
 畳の四隅をきっちりと合わせて、向こうの喫茶店でコーヒーとパンケーキを楽しむ客たちを驚かさないよう慎重に床を覆った。

 そのときだった。
 「おおっとっとっと!」
 そんな飄々ひょうひょうとした声とともに、蓋をしたばかりの畳が向こうからグッと押し上げられた。
 「おわぁっ!」
 四つん這いの姿勢で蓋したばかりの畳を抑えていた身体が持ち上がる。咄嗟とっさに仰け反って尻もちをついた<売れない小説家2>と巫女さんは、そのまま慌てて後方へ退避した。
 雨降る都会の喫茶店をたたえた畳一畳分の冒頭が再び姿を現す。
 「いやはや、怖い怖い。危うく現実世界に帰ってこれへんくなるとこやった。これがあるから、この道を使うんはようおすすめできんのですわ」
 声が響いてきたかと思えば、喫茶店の天井が水面のように茫洋と揺らめいて、漆黒の烏帽子えぼしを載せた頭がぬっと浮かび上がってきた。
 「み、宮本さん!?」
 巫女さんの反応を見て満足したように、あっはっはっはっは、と愉快な哄笑を張り上げながら這い出てきたのは、<売れない小説家2>の友人である神主だった。
 「おお、おかえりー」
 <売れない小説家2>は友人の手を取って、こちら側の世界へ引き上げてやった。
 「おお、おおきにおおきに」
 「え、なんで? どうして!? 宮本さん、まさか<売れない小説家2>さんが創った架空の人だったんですか?」
 「なんでそうなるんや。ええか、あっこは畳一畳分の冒頭なんやで? 思い出してみぃ、話の冒頭に何が書かれてたんやっけ?」
 「えっ・・・・・・ええっと、たしか、<売れない小説家2>さんの独り言から始まって、それを遮断する足音が聞こえてきて、それから場所の説明があって・・・・・・あっ!」
 からくりに気づいたように、巫女が目を丸くする。
 「せや。この神社はとある霊峰の頂付近にあって、山の麓には里があったな? おれはどこかで冠婚葬祭の祈祷をあげとる設定になっとったわ。そういうのがぜんぶ、この畳一畳分の冒頭に繋がっとったんやから、そこを通り抜けてこれば、どこからでもここまでひとっ飛びで帰ってこれるっちゅうわけやな」
 「なるほど、<売れない小説家2>さんは境内のいろんなところに世界を創ってますものね。だからいつも、どんなに出先が遠く離れてても、あんなに早く帰ってこれてたんですか!」
 「まあ、事情はよう知らんけど、無賃で居候させてやってんやから、そんぐらいは働いてもらわんとな」
 横からじっとりと一瞥を投げてくる友人に肩をすくめながらも、<売れない小説家2>は妙に思って口を開いた。
 「なあ、宮本」
 「なんや?」
 「おまえ、帰ってくるとき、誰かと話してなかったか?」
 「え? ああ、せやせや。<売れない小説家2>、あんたにお客さんやで」
 友人は烏帽子を脱いで巫女さんに手渡しつつ、<売れない小説家2>に手招きした。
 「お客さん?」
 <売れない小説家2>は立ち上がり、畳一畳分の冒頭に歩み寄った。
 「ああ、帰ってくる道中でうてな。あんたを探しててん」
 悪寒はすでに走っていた。
 畳一畳分の冒頭にゆらゆらと波立つ。喫茶店の風景が揺らめいて、じんわりと崩れていく。
 やって来る人は一人しかいなかった。誰もがそれを知っていた。
 波紋の底から、川端康成をすこしばかり若返らせたような、銀髪の頭が現れた。

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