アズサのこと

何かを探し回っている。
呼吸が荒い。焦っているような。何か、取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのような、そんな慌てぶりだった。
和室。北側の一面は、ふすまで区切られている出入口。東側は壁で、西側の一面には仏壇と床の間がある。南側には大きなガラス窓が付いていて、その向こうは縁側と裏庭に続いていた。
裏庭には、墓がたたずんでいる。
ああ、ここは―――
「おい、どこへやったんだ?」
実家の仏間だ、と気づくのと、その怒号が響いたのはほぼ同時だった。
振り向くと、襖の前にはお父さんが立っていた。
「分かんない……でも、たしか、この部屋で飼ってたと思うんだけど」
泣きそうな声で、おろおろと私はそんなことを言っている。
飼ってた? 何をだろう。
思い出そうとすると、突然、グッと背中を引かれたように仏間の景色が遠のいた。

目の前に、三匹の仔猫がいた。
キジトラ、三毛、白、と模様は三匹三様で、大きくて平たいお椀のような器の形をしたクッションに奇麗に収まって、スヤスヤと仲良く眠っている。私は床に正座して、仔猫たちの身体をそっと撫でながら、彼らの寝顔を慈しむように眺めていた。
座り心地が悪くて身じろぎすると、その気配が伝わったのか、キジトラの仔猫がふと目を覚ました。
寝ぼけているのか、まぶたがとろんと落ちては、ハッとした表情を浮かべるキジトラ。私が身体を撫でてやると「頭も撫でて」と言わんばかりに頬をすり寄せてくる。頭を撫でて、顎の下をさわさわといてやると、キジトラはクアーッとひとつ大きな欠伸あくびをして、前足をペロペロと舐めて毛づくろいを始めた。
いや、これは私じゃない。
誰かの視界。誰かの―――男の手だ。
ここは―――
風がするりと髪を揺らした。
ハッとして顔を上げると、オレンジ色のキックスクーターを蹴る少女の背中が遠のいていくのが見えた。

……アズサ?

と思ったのも束の間、私の視点はその少女に移っている。
夏休み、塾からの帰路。家までの途上にある公園を突っ切って、車道を一本横切って団地へと入っていく。
懐かしい。アズサが住んでいた団地だ。
駐輪場の片隅にキックスクーターを立て掛けて、自宅のあるB棟へ。建物に入るのかと思いきや、その足はエントランスの脇に造られた生垣のほうへと向かっている。
すると、地面に膝と手を着いて、茂みの中を覗き込むように、少女は生垣に顔を近づけた。
小さな野良猫が二匹、身を寄せ合っていた。
柄はキジトラと黒。それに、エサを盛った跡が残る紙皿、水の入ったお椀。
手が伸びる。アズサの手。ゆっくりと、嬉々として。
私は見当がついた。この少女は……アズサは、親や団地の管理人にバレないように、この野良猫たちをここで密かに飼っていたのだ。
もう少しで手が猫たちに触れそうな、その時―――
衝撃。
脳が揺れる。何かがぶつかった。固い岩が降ってきて、頭を叩き割られたような。
驚く間もなく、視界が弾けて暗転した。

目の前が急に真っ暗になり、私は跳び起きた。
彼らを見つけなきゃ、そう思って目覚めた。が、次の瞬間には、もう彼らが誰だか思い出せなくなっていた。人間の能力では到底追いつけないスピードで、何か、重要なはずだった思い出の欠片が、記憶の底へと沈んでいく。
やけにリアルな夢を見ていた、気がする。そんな感覚だけが残った。
「トーカ!」
声を聞いた。
外。アズサの声。
驚いて、私はベッドから腰を浮かせ、ガラスの小窓を覗いた。
家の前の路地に、アズサが立っていた。オレンジ色のキックスクーターに片脚を乗せて、私に手を振っている。
「アズサっ!」
そう叫びながら、私は悟る。
まだ、夢を見ているのだ、と。

パジャマ姿のままサンダルを突っ掛けて、半ば倒れ込むように玄関の扉を開けて、私は外に出た。
門扉もんぴを開けて、アズサに駆け寄る。
「久しぶり、トーカ」
「ああ、アズサ……」
私は膝を突いて、アズサの細い身体に抱き着いた。
「泣いてるの?」
背後にそっと腕を回してくれたアズサが、優しく私の背中を叩いた。
「だって……、ああ……」
アズサがいる。触れ合っている。こんなにも、温度がある。
「大きくなったね、トーカ」
鼓動……。息遣い……。
「ずっと、ずっと会いたかった」
あの時の、高校生のままのアズサ。
まるで―――
「わたしもだよ。会えて、嬉しい」
生きているみたいだ。

忘れもしない、五年前の今日。
B棟の屋上から、団地に住む青年が飛び降り自殺を図った。いじめか、将来への不安か、家庭に問題があったのか、何が原因で死のうと思ったのかは分からない。
だが、ひとつだけ、揺るがない事実がある。
青年は飛び降りた。二十階建ての団地のマンションの、その屋上から。
でも、彼は死ななかった。
代わりに、アズサが死んだ。
青年が飛び降りた先、エントランス脇の生垣、そこに、アズサがいたのだ。
即死だった。空から真っ逆さまに落ちてきた青年の頭部が、アズサの頚椎けいついに直撃。人生を投げだした自殺志願者の決断に巻き込まれて、アズサの人生は強制的に閉幕させられたのだ。当時は、どうしてそんな場所に、よりによって私の大親友であるアズサがいたのか、皆目見当もつかなかった。
でも―――
「さっき、アズサの夢を見たよ」
「どんな?」
「こっそり、野良猫を飼ってた」
ペット飼育不可の団地で。青年が降ってくる、ちょうどその真下で、こっそりと。
「ああ……」
遠い思い出を眺めるように、アズサは柔らかく目を細めた。

キックスクーターを蹴る。
「おぉ、速い速い!」
カラカラと笑い声をあげるアズサの後ろ髪が風になびいて、私の顔にわしゃわしゃとかかる。
ボードに両足を乗せて、ハンドルを握るアズサ。その背後から、彼女の手の甲をしっかりと押さえて、片足で地面を蹴る私。アズサのキックスクーターに、二人乗りをしているのだ。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
キックスクーターはどんどん速度を上げていく。
「んー? それはねぇ……」
アズサはもったいぶるように言って、ちらりと私に振り向いた。
背後に流れていく景色が白くぼやける。
まばゆい光に覆われて、私は目をすがめた。その瞬間、私たちはひとつの風になった。

ゆっくりと目を開けると、最初に飛び込んできたのは、墓だった。
お寺の一角を囲うように、整然と並んだ墓石の列。暑苦しい蝉時雨が騒然と降り注いでいるはずなのに、ひんやりとしていて、どこか淋しい場所。
ああ―――
「ここは……」
お寺の裏手。
「いつもありがとね」
「……うん」
この墓地は、知っている。
私はアズサと手を繋いで、墓地の中を進んだ。どれだけ同じような墓石が敷き詰められていようと、私が向かう先はただひとつ。あの日からずっと、毎年、この道を歩いている。
お寺の角を曲がったところで、私ははたと立ち止まった。
アズサの眠る墓。その前に、誰かがいる。
……車椅子。
黒い喪服に身を包んだ、男の人。白い花を墓石に手向たむけて、目を瞑り、数珠を親指に引っ掛けた右手を胸の前に立てている。左手は、麻痺しているのか、肩からだらりと垂れ下がっている。
まだ……、生きていたのか。
震え出した息を呑む。どれぐらいの時間、アズサの墓前に居座る彼のことを見つめていただろうか。
「毎年、来てくれてるんだ。だから、トーカ、もう……」
私はアズサの言葉をさえぎって、彼に近づいた。
祈り終えた彼も、電動の車椅子を動かして、私に近づいてくる。
握った拳が痛い。掌に爪が食い込む。
殺意。ここで彼を殺せば、アズサは戻ってきてくれるだろうか。十年経った今でも、そんな殺意が脳裏をかすめる。
「お前が……っ!」
お前が生き延びているなんておかしいだろう。お前が違う場所で勝手に死んでいれば。お前が世界からアズサを奪ったんだ。お前がアズサの墓の前に立つな。お前が助かっても意味ないんだよ。
私は彼に、どんな言葉を投げかけるつもりだったのだろう。
だが、脳内を駆け巡ったすべての憎悪は、何ひとつ、言葉になることはなかった。
彼は私たちに目を合わせることなく、ガタガタと車椅子を揺らして、そのまま私の身体をすり抜けた。
力が抜け、私は呆然とその場に立ち尽くした。
そうだ、これは夢だった、と、そこで思い出した。

「トーカに、見てほしいものがあってさ」
不意にアズサが言った。
振り返ると、背後に立っていたアズサも振り返っていて、去っていく車椅子の男性を見つめていた。
アズサがきびすを返して、男性の後を追う。
私もそれを追った。
どれほどの距離を移動したのかは分からない。気づけば、私たちは男性の家にいた。
男性が、居間へと続く扉を開ける。
目の前を、一匹の大きな飼い猫が横切った。
「ああ……」
キジトラの、猫だ……。アズサが……大切に、育てていた……。
「パパになったんだって」
キジトラ猫の向かう先には、大きくて平たいお椀のような器の形をしたクッションがあった。



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