【掌編小説】むすんでほどいて
(↑ のお話からどうぞ)
十二年前の七月二十四日は土曜日で、夕刻の町はゲリラ雷雨に見舞われていた。
夏休みの初日だった。
あたしは十五歳で、中学三年生の受験生。吹奏楽部の練習を一足先に切り上げて、昇降口で靴を履き替えて、このまま塾へ向かおうと校舎を出たところだった。
こんな夕立にもかかわらず、目の前の校庭ではラグビー部がずぶ濡れになりながら、八月に来る中学総体に向けて練習に励んでいた。かと思えば、同じタイミングで練習を終えたのであろう、バスケ部や剣道部の連中が背後の校舎から出てきて、ぞろぞろと校門のほうへ向かって去っていく。反対に校門からは、解放されている図書室で自習でもするのだろう、半年後に高校入試を控えた顔馴染みがまばらに入ってくるところだった。
よく憶えている。その時その瞬間、初めて、あたしの眼はトザワモトヤという変人の存在を認めたのだ。
彼は外に出てすぐの屋根の下に佇んで、静かに瞼を下ろしていた。
地上を踏み鳴らす雨脚に、血気盛んな掛け声、居残っている吹奏楽部の後輩が奏でるトランペット、和やかな哄笑、傘をストンと広げるくぐもった音……。大小様々な鳴動が湿った涼気に溶けて、騒然と犇めいていた。
しかし、彼はそれらのどの風景を眺めているというわけでも、どの音を聴いているというわけでもなさそうであった。
ひどい猫背である。眉は細く、睫毛は女の子のように長く、肌は病的なまでに青白い。雨による湿気のせいか、怪しい研究に失敗したせいか、きしんだ天然パーマが激しく爆発している。痩せこけた頬にはそばかすが散っており、薄く血色の悪い唇は小さく開かれ、その隙間からは歯列矯正の器具が覗いていた。
童話の挿絵みたいな、あるいは、古代ギリシアの彫像みたいな、そんな顔。ずんぐりむっくりした背格好や制服を着慣れていない風貌から、一目見てすぐに新入生の子だと判った。
物凄く集中して考え事をしているのか、立ったまま気を失っているのか、はたまた、木やら地蔵やら何かしら静物の真似事をしているのか……。声を掛けるべきか、このまま通り過ぎるべきか、なんなら一枚写真でも撮っておこうか……。彼が何をしているのか、次の瞬間にあたしの体はどのような行動をとるべきなのか、あらゆる可能性が脳裏を駆け巡り、あたしは三秒ほどその場で静止してしまった。
「何か用ですか」
不意に声を掛けられた。
彼は片目を薄く開いて、あたしを睥睨していた。今の声が彼の発したものだと気づくのが遅れて、あたしは二、三歩ほど後退った。その毅然とした態度に妙な畏怖を感じて、身体が慄いたのだ。声変わりはしていないのに、つい四ヶ月前まで小学生だったとは思えないほど落ち着き払っていて、なんとも大人びた声色だった。
「い、いえ……、ごめんなさい。その……、傘、持ってないのかと思って」
完全に油断していたあたしは、咄嗟に彼が傘を持っていないことを察知してそれとなく言い訳を連ね、口を噤んだ。
「お気遣いありがとうございます」
彼はなんの関心もなさそうにぽつりと呟いて、再び目を瞑った。
その時だった。
「おっ! なんだトザワ! まだ帰ってなかったのか!」
昇降口のほうから低くしゃがれた声が響いた。呵々、と快活な笑い声をあげて校舎から出てきたのは、体育教師でありラグビー部の顧問を受け持っているヤマオカ先生だった。
「こんにちは」
あたしは愛想よく微笑んで、ヤマオカ先生に挨拶をした。一年生の頃に一度だけ、移動教室か何かで廊下ですれ違った時に自分から挨拶をしなかったら、呼び止められてネチネチ怒られたことがあるのだ。
「おう! コノエじゃあないか! どうだ、受験勉強は順調か?」
「はい、これから塾へ行きます」
「はっは、結構! ああ、そうだ、吹奏楽コンクール、去年は全国で銀賞だったろう。今年は金賞目指して、頑張ってくれよ! 応援してるからな!」
悪い先生ではない。けれど、善意で叱ってくれたのだとしても少々面倒で、距離を取りたいと思ってしまう。
「はい、ありがとうございます」
あたしは不動の学年一位だし、吹奏楽部の部長だし、一学期までは生徒会長も務めていたから、取るに足らない失敗を逐一あげつらっては目くじらを立てて怒鳴ってくることで悪名高いヤマオカ先生からの評価も上々だった。
「トザワも、小洒落た詩人を気取るのもそこそこにして、少しは優秀な先輩を見習って勉強しろよ?」
背後から先生に声を掛けられると、トザワと呼ばれた彼が眉間にしわを寄せ、露骨に口を歪めた。
「いいかぁ? 音ってのはな、“耳で聴くもん”だからな!」
嘲笑を浮かべたヤマオカ先生は小馬鹿にするように語気を強めて言うと、大きな掌で彼の肩をバンバンと二回叩いた。そしてそのまま、「というか、お前らって面識あったんだなぁ」とかなんとか言いながら、雨を気にする素振りも見せずに校庭を走るラグビー部員の元へと歩き去っていった。
やれやれ、とでも言いたげに彼が溜息を吐く。面倒だ、と機嫌を損ねるのが見て取れた。
「……あー、あたし、コノエカオルコ。よろしく」
気まずい沈黙を雨音で紛らわすのも居心地が悪く、顔色を観察しながら自己紹介をすると、一拍置いて彼が口を開いた。
「……トザワモトヤ。一年です」
見立て通り、トザワモトヤは傘を持っていなかった。
そして、これもなんとなく予想していたことだが、彼は生徒会長であるあたしのことを、入学式や終業式などの全体集会の際に何度か体育館の舞台上に登壇しているにもかかわらず、まったく認知していなかった。在校生との対面式では、目の前で祝辞を述べたというのに。
「……何、してたの?」
「音を嗅いでいました」
折り畳み傘も持っているから、と置き傘を手渡して、二人並んで校門を出たところで訊ねると、彼は言った。この驟雨が過ぎるのを待っていただけだと思うのだが、詩的で可笑しな返答だった。
「へえ……。雨のにおい、みたいな、気配の話?」
「違います」
「……ふうん」
ああ、やばい子かもしれない。すぐにそう思った。
だが、傘を貸して話し相手になってしまった以上、早々に会話を途絶えさせるわけにもいかない。不動の学年一位で、吹奏楽部の部長で、一学期まで生徒会長で、おまけに将来有望のピアニストという品行方正な優等生の自尊心に、彼から身体を遠ざけようとしたがるあたしの脆い意志は阻まれた。
反応に困って次の言葉を探していると、先に彼が口を開いた。
「アリストテレスの三段論法というものを、コノエ先輩は御存じですか」
「まあ、触りぐらいなら。『A=B、B=C、ゆえにA=Cであると言える』みたいな三段階のあれよね?」
「ええ、そうです。『すべての人間は死ぬ運命にある。コノエ先輩は人間である。ゆえにコノエ先輩は死ぬ運命にある』というあれです」
「勝手に殺さないでもらえるかな?」
「だから、僕は音を嗅いでいたのです」
初対面の相手を躊躇いもなしに殺したことに対する不平をさらりと受け流したかと思えば、突如として文脈が飛躍してしまった。
「ええっと……つまり、どういうこと?」
友達や後輩と一緒にいたら同調圧力に負けて、そそくさと距離を取って「あの子やばいね」「変人だね」などと陰口を言い合っていたかもしれない。ヤマオカ先生が最も嫌いそうな、逆に言えば、格好の獲物といったところだろうか。一筋縄ではいかなさそうな、中々に風変わりな少年だった。
「先ほど、スクールランチをとっていた時に、雨を見ながらふと考えたのです。『耳が拾う音は空気を伝うものである。鼻が拾う匂いは空気を伝うものである。ゆえに、耳が拾う音というのは鼻でも拾えるもの、と言えるのではないか』と」
大通りに差し掛かったところでトザワモトヤはそう言うと、校舎の前でヤマオカ先生に嗤われるまでの事の顛末をぽつりぽつりと語り出した。
彼は本を読むことが好きで、読んだ書籍の中からお気に入りの一節を見つけ出しては、ノートに書き記すというような、一種の収集癖と呼べる習慣があった。そして、部活動には所属していなかったものの、家庭の諸事情により、夏休みも中学校が運営する学食、通称「スクールランチ」を利用するために登校していたらしい。食堂でスクールランチを食べている時も、彼は哲学の本を読み耽っており、そこでアリストテレスの三段論法を知り得たのだとか。
カレーうどんを食べながら、ノートにその概要をまとめて、彼は自分なりに三段論法の例を黙々と考えていた。その時に、校内に吹奏楽部のトランペットが響いているのをふと感じ、音と匂いは空気を伝うという点においては同じ性質をもっているのだから、音を鼻で嗅いだり、匂いを耳で聴いたりすることも可能なのではないか、という仮説を構築し、「ふわりとトランペットの音が香った」という一文をノートに書き留めた。
その瞬間を、時を同じくして学食で昼食をとっていたヤマオカ先生に目撃されたのだった。
「『音というのは空気を振動させながら伝わる波のことで、耳の中にある鼓膜がそれを拾うんだ。匂いというのは波動じゃなくて、化学反応が生み出す物質だから、鼓膜では拾えない。鼻の奥にある粘膜が刺激されることで、俺たちは匂いを感知しているんだぞ』と、極めて常識的な音と匂いの正体について、不快な音声と口臭でネチネチと解説されました」
彼の反吐を吐き捨てるような口ぶりからは、本当に厭な思いをしたことが窺えた。
相当悔しかったのだろう。たしかに、解りきっている感覚を改めて言葉に直して長々と説明されることほど、鬱陶しい苦行はない。あくまでも、彼は読んで知り得た知識を自分の中に落とし込もうとする過程で、試験的に「ふわりとトランペットの音が香った」という言葉を書いてみただけなのだ。本気で音を鼻で嗅げると思っていたわけでも、匂いを耳で聴けると思っていたわけでもないのに、その一瞬だけを切り取られて皮肉めいた小言を散々投げかけられては、辟易して悪態をつきたくなるのも頷ける。
「そうかそうかぁ……、そりゃあ、災難だったね」
「……知識人ぶりやがって、体育教師のくせに」
俗離れしたような雰囲気を醸し出していた彼からこれほど人間味溢れる言葉が零れ出たことが面白くて、そのギャップに思わずあたしは吹き出して笑ってしまった。
「トザワくん文才あるんじゃないかな。ふわりと音が香った、なんて表現、普通に生活してたら絶対に出てこないよ……。ああ……、ええっと、あたしピアノやってるから、ある程度の理解はあるつもりなんだけど、演奏とか絵画とか、芸術を目にした時に感じるあの感覚って、言葉じゃ共有できないものがあるのよね。それを上手く言語化して相手に想像させるのって、ひとつの才能だと思うわ」
「でも、ヤマオカ先生には届かなかった」
「そういう時、どうすればいいと思う?」
あたしが訊ねると、彼は背を丸めたまま傘の陰からあたしを見上げた。早く答えを教えろ、と視線が言っていたので、あたしは堂々と笑って、深く息を吸って口を開けた。
「ああ、可哀想に、こいつセンスねぇなぁ、って思って、憐れんでおけばいいのよ」
高く掲げた傘をくるくると回すと、表面を伝っていた雨粒が輪を描くように空を舞って、はらはらと煌めいた。
車道側を歩く彼が鼻で笑った。ちらりと視線を落とすと、彼の顔はすでに傘の陰に隠れていて、その表情はよく見えなかった。
十分ほど歩いたら岐路に立ち、傘は下駄箱にある三年一組の傘立てに差しておいてくれればいいから、と言って、そこであたしは彼と別れた。その夏のひと時から、あたしが中学を卒業し、高校二年生になるまで、彼との交友関係はほぼ皆無だった。
再びトザワモトヤに遭遇したのは、高校生活において二度目の文化祭を迎えた夏だった。
運営実行委員で学校中を歩き回り、昼休憩に入って一息ついたところで「カオルコ先輩」と声を掛けられたのだ。
「お久しぶりです」
中学三年生になった彼は随分と身長が伸びていたが、童顔な見た目はそのままだったし、まったく声変わりしていなかった。
「ああ……、えぇっ!」
あの夏に出会った記憶は妙に印象に残っていたので、よく憶えていた。驚くあたしなど意にも介していない様子で、相も変わらず天然パーマで、手に持った焼きそばのパックが似合わないほど気怠く不愛想だった。
「文化祭とか来るタイプだったんだ。こういうわちゃわちゃしてるの、めっちゃ嫌いそうなのに」
あたしが皮肉を交えて言うと、彼は眇めた目に影を落として、不敵な笑みを浮かべた。
「ええ、死ぬほど嫌いです。カオルコ先輩を探していたのです」
「え?」
背丈が同じぐらいの見知らぬ男子と一緒にいるところを友人に冷やかされるのも面倒だったので、人の集まる校舎から離れて、あたしたちは校庭の隅の木陰に逃げ込んだ。
「よく分かったね」
「何がですか」
「あたしがここに進学したこと」
「知りませんでしたけど、大方このぐらいの偏差値の高校をいくつか当たれば出会えるだろうと思ってました」
「何校回ったの?」
「まだ二校目です。カオルコ先輩が優秀なお方で、助かりました。元気でしたか?」
「うん……、まあ、そこそこ」
あたしは平然と微笑んでそう答えたものの、実はその時、少しだけ気分が落ち込んでいた。
指導についてくれていたピアノの恩師に見限れてしまったのだ。
ピアノコンクールで同年代の競争相手に負けるようなことはまずなかったし、年齢無制限で大人の出場者を交えた大会でも、あたしはそこそこ名の知れたピアニストだという自覚があった。様々なコンクールに出場しては自分の才能を思う存分発揮して無双し、「期待の新星」などと散々もてはやされ、正直、あたしも有頂天になっていた。
このまま突っ走れば、プロになれるのは必然かと思われた。
そんな時に、アオキユナが現れた。
恐ろしい子だった。生まれて初めて、あたしはピアノを含め音楽の才能を比較してしまった。
最初から、彼女はあたしの前、あるいは上にいた。いつからかは思い出せないが、気がつけば、彼女はあたしに立ちはだかる絶対的な壁となっていた。
この壁は越えられない。この壁を越えないとプロの世界でやっていけないのだとしたら、諦めるしかない。そう悟らざるを得ないほどの衝撃と絶望は、彼女の演奏を聴けば聴くほど大きく膨らんでいった。
音楽の神はいた。そして、アオキユナはその悪魔に狂気的なまでに祝福されていた。
だから、諦めた。
アオキユナの奏でる調べが見世物だとすれば、あたしの演奏なんてただの恥晒しであり、一文の価値もないように思えた。アオキユナがピアノを弾いてさえいれば、それだけでよかった。十歳ほど年の離れた天才少女に、そう思わされた。そして、急に何もかもが厭になり、師匠の期待を裏切るような悪態をつく日々を送り、とうとう怒りを買ったあたしは破門になってしまったというわけである。
とはいえ、さほど精神を病むことはなかった。プロになるという目標が潰えたぐらいでは崩れない程度には、あたしの視野はまだ広く明瞭に保たれていたらしい。
「何か、用でもあった?」
情けない自分の近況をはぐらかすように、あたしは明るく訊ねた。
「……いえ、特にこれと言った用事はないのですが、その―――」
トザワモトヤはそこで言葉を切ると、少し考えるような素振りを見せた。言おうかどうか迷っているかのような物憂げな表情に、あたしは柄にもなく、少しだけドキドキしてしまった。
「アメリカのロックバンドのボーカルが自殺をした、というニュースを見たのです」
薄く血色の悪い唇から力なく零れ落ちてきた言葉は、唐突な愛の告白ではなく、ここ一、二ヶ月ぐらい海を越えて世間を賑わせている、世界的大スターの訃報だった。
「ああ、知ってる知ってる。あたしもちらっと見たわ」
アメリカから世界に名を轟かせているロックバンド、そのボーカルの男性の遺体が見つかった。自宅で首を吊って死んでいたらしい。
薬物関連の凶悪犯罪に巻き込まれていたのではないか。仲の良かった誰々も自殺しているから、それを追うように逝ったのではないか。悪質なネットいじめの被害に遭っていたのではないか。もともと虚弱体質だったから、プロとしてパフォーマンスのクオリティが日に日に落ちていく自分に絶望したのではないか。インターネット上では各国で哀悼の声が上がり、様々な死因に関する憶測が飛び交っていた。国内外問わず、SNS上に書き込まれる誹謗中傷や過度な期待、社会からの重圧、自分の不甲斐なさなどに耐えかねて、精神的に追い込まれ、自ら命を絶ってしまう有名アーティストの報道は度々話題になるが、今回の事件はとりわけ世界中を震撼させるものだった。
「それを見て、カオルコ先輩は今何をしているのか、ふと気になったのです」
彼は感情の読めない声で言った。
ああ、とあたしは思った。脈絡がトンと飛躍して会話に妙な空白が生まれるこの感覚は、とても懐かしいものだった。
「……もしかして、好きだった?」
思い切って、それでいて余裕綽々と冗談っぽく微笑んで、あたしは訊ねた。
「いえ、そのバンドのことは、あまりよく知りません。バンド名もメンバーの名前も、この訃報で初めて知ったぐらいです。少しだけ調べたら、二、三ほど聴いたことのある彼らの洋楽がありましたが、そのバンドの楽曲だと認識していたわけではありませんでした。その程度です」
足先からサーッと血の気が引いていく感覚。心臓に悪い意思疎通のすれ違いを味わい、鼓動がバクバクと胸を叩いた。
「ふうん……、そう」
冷汗が滲み出した顔を彼から背けて、あたしは校庭の一点を見つめた。すると、彼は全く緊張する素振りも見せずに再び口を開いた。
「有名人の不倫ゴシップとか、社会的弱者による迷惑行為とか、そういった俗っぽいニュースは意識して見ないようにしているのですが、何かの拍子でそのボーカルの死を知ってしまった時に、少し思うところがありましてね」
「うん」
「僕の手が届きそうな範囲で生きている人々は、本当に大丈夫なのだろうか、と」
風が止んだ。
あたしはトザワモトヤに視線を移した。
相も変わらず、彼は気怠そうに虚空を見つめていた。しかし、その瞳からは不安の色が滲んでおり、次に発する言葉を慎重に選ぼうと思案を巡らせているのが見て取れた。
「そのボーカルの周りにも、彼の自殺を阻止できる仲間が絶対にいたはずなのです。世界中で名を馳せている大スターなのに、地球上で彼を助けられる人間が誰一人として存在していなかったというのは、何か致命的なミスがあったとしか思えません。一人ひとりが少しずつ、彼が徐々に壊れていく光景を見落としていたか、あるいは、高をくくって見て見ぬふりをしていたか……。いずれにせよ、このような結果に終わってしまった事態は取り返しがつきませんが、僕は彼の死を絶対に無駄にしたくはないのです」
「うんうん」
「僕は割と、あらゆる人生の難を狡猾にやり過ごしてきました。だから……、本当にいざという時、というのは例えば、大切な友人が人間じゃなくなった時、とでも言いましょうか。そんな時に、自分が薄情な行動をとる最低な人間であるということをよく知っているのです。失いたくない友人から助けを求められても、僕は見て見ぬふりをして、その絶望から眼を背けてしまうかもしれない。そんなことを考え始めたら悲観的な妄想が止まらなくなってしまって……、それで今、あの人は元気だろうか、この子は大丈夫だろうか、と四方八方を訪ね回っている最中なのです」
この時、この瞬間に、あたしはなんとなく直感したのだ。
あたしはこの後に続く未来のどこかで、遅かれ早かれ、このトザワモトヤという変な男に告白するだろう、と。
「へえ、まぁまぁ良い男じゃない」
娘のカナコのお気に入りである、みっちゃんのお母様が身悶えするように言った。
「そうなんです、まぁまぁ良い男なんです。まさか、その時すでに小説家デビューしてただなんて、思いもしなかったんですけどね」
晩春の、穏やかな昼下がり。あたしとお母様は、公園の四阿に設けられたベンチに腰掛けて、中央の貯水池で水遊びをする少年少女に付き添う男たちを眺めていた。
「そっかそっかぁ。トザワモトヤ。夫が本読みでね、何冊か彼の話題作も家にあるけど、まさかこんなご近所さんだったなんて」
「意外にいますよね。娘がこの春まで通っていた幼稚園の裏手に、プロ野球選手の実家があったり」
「あら、そうなの!」
そんな他愛もない馴れ初め秘話や世間話で盛り上がっていると、みっちゃんとカナコが手を繋いで、こちらへ向かってくるのが見えた。その背後から旦那があたしに目配せをして、お開きにしよう、と視線だけで伝えてくる。
「そろそろかしらね」
みっちゃんのお母様もそう言って、ベンチから腰を上げた。
「ですね」
「今日はカナちゃんがいてくれて、ほんと助かったわ。ミツキのやつ、受験に落ちてくさくさしてたからさ……。こういう、息子がいざという時に、母親としてどうしたらいいものか、困っちゃっててねぇ」
「いえ、こちらこそありがとうございます。うちのカナコもここ最近、もうずっと、みっちゃんのことばかりで、今日は遊んでいただいて助かりました」
「いいのいいの。これから一年、とりあえず時間あるから、とことんこき使ってやってよ。いつまで純粋無垢な乙女のお役に立てるかわからないけど」
「意外に、こういう乙女の恋心って高校生ぐらいまで秘めてたりしますからねぇ」
「もしカナちゃんが大人まで引き摺ってくれてたら、いつでも貰ってくれて構わないからね。あいつ、恋愛には奥手だから、カナちゃんが今の感じのままグイグイ行けば簡単に落とせるわ」
「そうなった時の旦那の反応が楽しみですねぇ」
「子供好きみたいだし、いっそのこと保育士になるようにでも仕向けて、ピアノでも始めさせてみようか、なんてね」
「ああ、それなら、弊社にお任せあれ。大人向けのピアノ教室で、お待ちしております」
悪巧みを企てるような人妻二人の高らかな笑い声は、葉桜に彩られた長閑な春空にはひどく似つかわしくないものであった。