【掌編小説】都会人と怪人とか偉人
天井の隅に虫が張り付いていた。
「風邪ひかないでね」を人と別れる際の一言にしているこの私が、奇しくも夏風邪をひいて、へなへなと萎れてベッドに臥している。
「あの虫、なんだろうね」
と、怪人が私の耳元で囁いた。
「近くで見てみたい?」
私は怪人に問い返す。酷い鼻声である。唾を飲むと、喉の裏側をざらりと擦られるような感触を覚えた。
「うん」
「じゃあ、獲ってあげる」
私は重たい頭を無理やり起こして、ふらふらとベッドの上に立ち上がった。
「うわぁ、よく近づけるね」
と、今度は都会人が気味悪そうに声をあげた。
「虫、ダメなの?」
「うん」
「ゴキブリではなさそうだよ?」
私はその虫とギリギリの距離を保ちながら、限界まで近づいてみた。
「ゴキブリじゃなくたって、虫なんてどれも同じだよ」
カメムシの仲間だろう、ということはすぐに見当がついた。色や形は、島では日常的に目にする類のものだったし、何より、こちらが下手に刺激しなければ虫も攻撃してこないことを知っているから、別にどうってことはない。
「都市化の進行と、虫に関する知識不足が、現代人の虫耐性の低下を加速させている要因なのかもしれないね」
そんなことを耳元で囁いたのは、偉人だった。
「外に出なくなったから、みたいな?」
私は偉人と理解を確認する。
「それが主だね。一昔前と比べて、人間は外に出なくなった。その結果、虫という生き物を、公園や森などの屋外ではなく、むしろ屋内で目撃することのほうが多くなってしまった。だから、安全な虫とそうでない虫の区別ができなくなって、視界に入った虫はぜんぶ殺せ、みたいなレベルにまで怖がるようになってしまったんだね」
「虫はいないほうがいい」
都会人が吐き捨てる。
「それは無理な言い分だね。世界は虫に支配されていると言ってもいい。今現在発見されている動植物、すなわち地球上の生物の中の6、7割前後が昆虫種なんだから」
豆知識が止まらない。さすが偉人である。
「トーカ、早く、早く」
「はいはい、ちょっと待ってね」
怪人に急かされて、わたしは割り箸をカメムシの前に置いてみた。
急に視界に何が現れたように見えたのだろう。カメムシはたじろいだ。が、それも一瞬のことだった。
敵ではないと判断したのか、カメムシは三対の脚をロボットのように動かして、割り箸の上に乗っかってきた。揺らさないように、そのままそっと割り箸を机上に移す。
「丸いね」
「うん、よく見る盾みたいな形じゃない」
「マルカメムシだね」
「早く、早く殺せ」
マルカメムシはお掃除ロボットのように机の上を数センチだけ這うと、突然羽を広げて、開いた窓から外へと飛んでいってしまった。
「ひぇぁあああああっ!」
「うぉ、びっくりした」
「キモい! マジで無理!」
「君の叫びのほうがキモいって。女の子でも、もうちょっとマシに叫ぶよ」
「まぁ、いいじゃないか。何も、都市化は彼一人が進めているわけじゃないんだから。この先、人類はどんどん、自然と隔てられた別の、いわば“人工自然”のような世界へ閉じ籠るようになる。そうなれば、人間は自分が許容できる生き物だけと暮らすことができるようになるし、自然界からは人間が消え去ってWin-Winだろう」
偉人の長々とした喋り口を聞き流し、私は再びベッドにもぐりこんだ。
「調子悪そうだね」
怪人が心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。
「うん、でも平気。少し寝れば、治ると思う」
「なぁ、なんか臭くないか?」
と都会人。それに、怪人が横槍を刺す。
「歯周病で、歯茎が膿んで臭いんじゃない?」
どうやら、怪人は都会人のことをあまり快く思っていないらしい。
「いや、これはカメムシのものだ。さっきのマルカメムシが、どこかでヘキセナールを含む体液を飛ばしたんだね」
「ごめん、鼻詰まってて、全然分かんないや」
「カメムシの体液は臭いだけじゃない。肌に付くと、最悪、皮膚炎になってしまう可能性もあるから、充分気をつけるに越したことはない」
意識が再び微睡に連れ去られる最中、偉人がそんなことを言った、ような気がした。