【掌編小説】センタクバサミゼミ

眼が悪いのに、メガネもコンタクトレンズも使わず、僕は裸眼で日々を過ごしている。
今、パソコンのキーボードをタイピングしているが、並んだ文字が見えているわけではない。画面には、何か、うようよとした黒い線が横たわっているようにしか見えない。それでも、指先に触れるキーボードの配置と距離感は完全に把握しているので、思い通りの文章が書けていると思うし、間違えたと直感したらその部分を消去することもできる。これは、物が見えない世界にえて身を置いたことで体得した、一種の特殊能力と言ってもいいかもしれない。

ちょっとお洒落な喫茶店や居酒屋に入ると、壁にめ込まれた黒板に白や黄のチョークでメニューが連なっていることがある。
「見てあれ、本日の一押しだってさ。頼んでみよっか」
と恋人が言って、
「いいね」
と僕が返事をすると、
「そんなのないよ」
と返ってきた。彼女には、僕が何も見えていないくせに適当に相槌を打っている、ということがバレているので、このような巧妙な罠を度々仕掛けられるのだ。

僕は何も見えていないが、真っ直ぐ歩くことができているらしい。
道路標識も広告看板も、すれ違う人の顔も、僕には何ひとつ見えていない。
「ぼやけた視界の中を歩くのって、気持ち悪くない?」
と恋人が訊いてきたから、
「さあ、最初からこの解像度でしか、眼に物が映ってないから、別に普通だけどね」
と僕が返事をすると、
「それは、ありがたい」
と返ってくる。
「どうして?」
と僕が問い返すと、
「まじまじと君の顔を見ていられるから」
と返された。どうやら、僕が何も見えずにただ呆然と道を歩いているだけだから、隣に肩を並べる彼女は僕の目を盗む必要もなく、気恥ずかしい想いも抱かずに、白昼堂々と僕の横顔を見つめているらしい。
「まじまじと見ていられるものかい、僕の顔は?」
「ええ、それで、あごひげの左側がいつも剃りきれていない、ってことに最近気づいたの」
「じゃあ、そこだけは、今度から君にお願いしようかな」
「ありがとう。でも、遠慮しとく」

眼が見えない代わりに、と言っては何だが、僕は音によく反応する。
隙間風がひゅるりと音を立てるだけで、僕の身体は過剰なまでに跳び上がる。
「ただの風だよ」
と恋人に笑われて、
「なんだ風か、そうか」
と僕が安堵すると、
「嘘だよ」
と返ってきた。
「え、じゃあ、今の音は何だったの?」
「秘密」
また、何かしら罠のような物を、仕掛けられたのだと僕は思った。

人間が近づくと途端に鳴き止む夏のセミは、眼の見えない僕にとって非常に厄介な存在だ。
あいつらは洗濯バサミのふりをして、ベランダに干した洗濯物に止まることがある。
「洗濯物、取り込んどいてくれる?」
と恋人に言われて、
「了解した」
と引き受けて僕はベランダに出る。
風に飛ばされないよう物干し竿に洗濯物を止めているそれに手を掛けると、そいつは突如としてビビビビビと鳴いて暴れ出す。
不意打ちのような音に敏感な僕はびっくりして、後退った拍子にベランダと窓枠の段差に踵を引っ掛けて、スローモーションで見返したいと思えるほど無様に、室内にすてんと転がった。
「最高かよ」
と彼女は手を叩いている。洗濯物にセミが止まっていることに、彼女は気がついていたようだ。
「期待通りだったかい?」
と僕が埃を払いながらスマートに問うと、
「ええ、さすがね」
と彼女は歯を食いしばるように笑った。
打ち所が悪くなくて、本当によかった。
こういう時のために、体育のマット運動の授業で伸膝後転の練習をしたのではなかったのか。咄嗟にそれをやってのけるぐらい、機転の利いた体の動かし方ができるようになりたいものだ。

「どうして裸眼なの?」
という質問には、
「物を正確に捉える必要がないから、かなぁ」
と答えるようにしている。
視界に浮かんでいる有象無象のシルエットは、曖昧なままにしておいたほうがいい。あれを見たい、と期待することより、あれを見なければよかった、と後悔することのほうが多いから。
「次の週末、夏らしく、海にでも行きましょうか。ビキニも買ったし」
と恋人に誘われて、
「じゃあ、その時はメガネを掛けようかな。夏らしく」
と僕は返した。恋人のビキニ姿は、正確に捉える必要がある。

眼が悪いのに、メガネもコンタクトレンズも使わず、僕は裸眼で日々を過ごしている。
今、パソコンのキーボードをタイピングしているが、並んだ文字が見えているわけではない。画面には、何か、うようよとした黒い線が横たわっているようにしか見えない。それでも、指先に触れるキーボードの配置と距離感は完全に把握しているので、思い通りの文章が書けていると思うし、間違えたと直感したらその部分を消去することもできる。

うん、大丈夫。自分の低俗な部分を晒してしまうような失態は、今のところしていないはずだ。
ほら、物が見えなくたって、どうってことはないだろう。

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