【掌編小説】ポッケ星人
キャンパスまでの道中、お尻がむず痒くなって、穿いていたジーンズの後ろポケットに手を忍ばせた。
尻が痒ければ、尻を掻く。おっさんだろうと女子大生だろうとそれは同じで、何もおかしな行為ではない。
ポケット越しに尻を掻いていると、その手が何かに触れた。
まさぐって、感触を確かめる。切符でもない、レシートでもない。携帯でも、財布でもない。
今のは、なんだったんろう。
触れてみた。
温かくて、柔らかくて、すべすべしている。
それが来ると、街の気温がふわっと上がる。眩しい宇宙から降りてきたそれは、生き物のように蠢いて、わたしの視界から光を遮った。
最初は怖くて警戒していた。隅のほうへ後退って、それが宇宙へ帰っていくまで、離れた場所で小さく丸まって凌いでいた。
しかし、最近になって、わたしはあること知った。
剣のような形をした冷たい金属製のゴミを、そのクレーンが引き上げていくではないか。温かいそれは、宇宙から降ってくるスペースデブリを回収するクレーンだったのだ。
触れてみる。
冷たくて、硬くて、ギザギザしている。
ポケットから取り出した鍵は、ごく普通の家の鍵だ。だが、先ほど触れた何かとは、全く逆の感触のように思えた。
私は鍵を鞄にしまった。いつもの癖で、家を出ると無意識に後ろポケットに入れてしまうのだが、落としたら面倒だ。
もう一度、後ろポケットを漁ってみたが、鍵の他に何かが入っていた感触はない。
妙だな、とは思いつつも、講義室で待っていた友人と合流して、私は席についた。
いつもの地震をやり過ごして、わたしは立ち上がった。
見ると、街が水没しないように、すでに消防班がバリケードを張る準備に取り掛かっていた。つまり、近いうちに、津波を伴う大地震が起こる可能性が大いにある、ということだ。
記録を分析する限り、今回の小さな地震は余震だろう。
多少の揺れなら生活に支障はないが、一週間に一度ぐらいの頻度で、ひと際大きな地震が街を襲うことがあるのだ。
大地震は非常に厄介だ。天と地がひっくり返るほどの勢いで揺れるから、今日はアラートが鳴るまで、家の中でジッとしているのが安牌だろう。
その日の講義を終えて、私と友人は図書館に赴いた。
試験が近づいており、レポート課題も溜まってしまっていたため、今日はそれらを片っ端から片付けようと決めていたのだ。
学生証をゲートにかざして、空調の利いた涼しい自習スペースへと向かう。そして、友人と協力しながら黙々と作業を進め、私は日が暮れるまで図書館で過ごした。
その日の限界と妥協の境界を見出すと、私たちはキャンパス内のスタバに寄ってから、各々の帰路についた。
一人で暮らしている部屋に戻り、着ていたTシャツとジーンズを洗濯機に入れた。今すぐに回すと家事が渋滞してしまうから、明日の朝に洗濯が完了しているように、予約を設定しておく。
何か忘れている気がする、と胸に引っかかりを覚えたが、その後すぐに部屋を訪ねてきた恋人と夜ごはんをつくって食べた。
余震に警戒して過ごしていると、見慣れないスペースデブリを観測した。
透明なシリコン質のケースのような何かに、ペラペラのカードのような何が収まっている。今までも、このカード状のゴミが降ってくることはあったが、シリコンに包まれている物は見たことがなかった。
危険だから、市民はスペースデブリに近寄ってはいけない。クレーンの回収に巻き込まれてしまう恐れがあるからだ。だが、好奇心が勝ったわたしは、クレーンに回収されてしまう前に、それをバリケードの中へと引きずり込んだ。
ケースに入っているカードには文字や数字が刻まれており、その右端には写真が付いている。女の顔を写した写真だ。これらの情報から、文字や数字は写真の女に関する周辺情報を記したもので、シリコン質のケースに防護されていることを踏まえると、これは身分証明などに使われている重要機密のカードであることが推測される。
バリケードの奥で備えていた消防班の元にこれを持っていくと、津波の水害から市民を守るのにこのシリコンは使えるかもしれない、とのことだった。
学生証が見当たらない、ということに気づいたのは、恋人と近所のコンビニへ買い足しに来ている最中だった。
必要な物を買い物カゴに入れて回り、レジで精算する際に財布を開くと、あるはずの所定の場所に学生証がなかったのだ。
「最後に取り出したのいつ?」
と恋人に訊かれ、遠い記憶を掘り返す。
「図書館かも」
と私は答えた。
試験勉強を終え、友人とゲートを出る際には学生証をかざしているから、その時まではたしかに持っていたはずだった。
恋人も協力してくれて、家中を探して、キャンパスまで戻って図書館中を探し回っても、結局、私の学生証は見つからなかった。
私は知っている。こういう時、見つかるまでの道のりは途方もなく長いということを。そして、案外、なんでもないところから出てきて、狐につままれたような思いをするのだ。
「道端に落としてなければいいんだけどね。明日、落とし物コーナー覗いてみよう」
「うん、そうする。ごめんね、探すの付き合わせちゃって」
鍵にしろ切符にしろ学生証にしろ、無意識にどこか別の場所に置いてしまうと、本当に見つからなくなってしまう。
そろそろこの現象に、固有の名称を付けてもいい頃かもしれない。
焦る気持ちで途方に暮れる頭の片隅で、私はそんなことを他人事のように考えていた。
アラートが響いた。
ピー……、ガコン。不自然な、空気を裂くような冷たい音。
大地震の合図だ。
「地震です。強い揺れに警戒してください」
街の電柱に取り付けられたスピーカーから、繰り返し警戒放送が流れる。
「落ち着いてください。いつも通り、市民の皆さんは、バリケードの奥へ」
消防班長が市民を誘導している。
わたしも誘導に従って、先ほど造られたシリコンの防壁の内側へ避難した。
強い揺れとともに、津波が街を襲う。
透明なバリケードの中で地震を耐え凌ぎながら、わたしは築かれてきた街が再び均されていくのを、ただ、呆然と眺めていた。
けたたましい不快な音が響いた。
ガコン、ピー、ピー……。不自然な、意識を貫くような冷たい音。
洗濯が終わった合図だ。
微睡んでいた身体が現実に呼び戻されて、私はベッドから起き上がった。
洗濯物を洗濯機から洗濯カゴへ、そして、それを持ってベランダへ。ハンガーに服を、洗濯バサミに下着を、ぱっぱと雑に干していく。
「ん?」
最後に洗濯カゴからジーンズを手に取ると、後ろポケットに何かが入っているような感触を覚えた。
……学生証だ。手触りを確かめて、私はホッと溜息を吐いた。
「よかったぁ」
シリコンケースの中に避難していた市民は、街の厳戒態勢が解かれると、随時、各々の家へと去っていった。
街を再建している最中は、当然、新種のスペースデブリが話題になっていた。シリコン製のゴミが避難所として活用されたことにより、今回の地震で起きた津波による被害はかなり軽微なものだった。
消防班が復興作業に取り掛かっている最中、わたしはこのスペースデブリについての研究を進めていた。
シリコンは防水性、気密性に優れた素材だ。そのため、中に入っているカードも、そして、避難した市民たちも、水に濡れた様子はない。次回の津波に備えて、街全体をこのシリコンで覆うことができれば、さらに街の浸水被害を抑えられるかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
突然、街の気温がふわっと上がった。
あっ、と気づいた時には、時すでに遅し。見上げると、温かいクレーンがバリケードを掻き分けて、このシリコンケースを引き上げていく。地上は遠く離れてしまい、シリコンケースから逃れそびれたわたしは、眩しい宇宙へと放り出されてしまったのであった。