【掌編小説】青の再訪

もうじき七月も終わるという頃の夏、わたしは東京大学に進学した友人の部屋を訪れた。
ユウジ。中学生の頃まで同じ島の学校に通っていたが、高校で離れ離れになってしまった、わたしの幼馴染だ。
月曜日の東京駅は、行くべきじゃない。田舎者なりに、そう思った。
地下鉄を降りて地上に出て、似たような建物ばかりが乱立する街を五分ほど歩く。彼から送られてきた住所に書かれたマンション名と、エントランスの前に設けられた石碑に刻まれたマンション名が一致していることを確認して、わたしはつややかな石板にめ込まれたインターホンに部屋番号を入力して、彼を呼び出した。
カメラでわたしと判ったのだろう。スピーカー越しに応答はなく、無言でエントランスの大扉が開く。地元の島にはない、十七階建ての細長いマンションの、十五階の一室でユウジは生活をしていた。
「人のいない空間がなかっただろう」
ドアの前でわたしの姿を認めた彼は、相好そうごうを崩して開口一番に言った。
「ええ。それに、なんだか蒸し暑いわね、島と比べて」
わたしも笑って、彼の部屋の中へ足を踏み入れた。
白い部屋だった。外気とさほど変わらない温度で、少しだけ開いた窓からさわさわと温い風が吹き込んでくる。八畳ほどのワンルームに、トイレと風呂と、IHのキッチンが付いていた。
「ヒートアイランド現象だな」
「何それ?」
「いや、知らないならいい。エアコンをつけよう」
「いいわ。エアコンの風、嫌いなんでしょう」
「客人を招く時ぐらいはいいさ」
彼はエアコンのリモコンを操作すると、窓を全開にしてベランダへと出ていった。
ヒートアイランド現象。小学生の頃に、社会の授業か何かで用語を聞いた記憶はあるが、なんのことかは忘れてしまった。
彼は寡黙かもくな人だ。だが、不思議なことに、静寂な空気が彼を満たしていても、なぜか彼の考えていることはよく読める。
ある言葉を吐いても、相手に伝わらなければ、そこで引き下がる。「ヒートアイランド現象」とは何か、ということまでは教えてくれない。それは、わたしたちにとって、その言葉自体があまり重要ではないと彼は判断したからだ。ずっと南にある地元の島よりも、東京のほうが蒸し暑い。「ヒートアイランド現象」という言葉が解らなくても、その現象はお互いがよく感じて、身体がすでに知っている。であれば、二人の会話の中で、「ヒートアイランド現象」という言葉を使う必要はないのだ。
島で暮らしていた頃から、彼が口うるさく喋るような姿は見たことがない。どこで何をしていても落ち着いていて、常に感情がいでいるのだ。いや、たかぶっていても表に出さない、と言うほうが正確かもしれない。
クーラーの駆動音が空気を伝った。効き始めた人工的な冷風が、みるみると室内とからだの温度を下げていく。
背負っていたリュックを壁際に置いて、わたしもベランダに出た。そこにはキャンプ用の折り畳み式のベンチが広げられており、彼は仰向けに寝転んで目を瞑っていた。
「見晴らし良いじゃん」
雲ひとつない空の青に、吸い込まれそうになる。
整然とした街だ。真下の道路を横切る車や人々が、遠く、小さい。方眼用紙のマス目を埋めるように、同じ形をした四角い建物が隙間なく配置されている。国会議事堂だけが妙な形をしていて、ひと際浮いていた。
「都会のジオラマだな」
彼は眼を開けることも身体を起こすこともせずに、ベンチの上でゆっくりと膝を立てながら、関心がなさそうに呟いた。
ベンチのすぐ脇に、薄汚れたビーチサンダルが置いてある。彼が脱ぎ捨てた物だろう。
わたしは彼が空けてくれたスペースに腰を下ろして、ビーチサンダルを履いて、街とも虚空ともつかない曖昧な景色を眺めた。
二十分、いや、三十分ほど黙り合って、そうしていた。
「どう?」
「何が」
「東京での生活は」
また、沈黙。
「……別に、どうということはない。島にいた頃と、何も変わってないな」
ゆったりとしただった。
「そう」
わたしは息を吐いて、また黙った。
彼も黙る。
時間の流れが遅い。彼は会話に、多くの言葉を用いない。彼がまとう空間は、東京にいるとは思えないほど、忙しなくうごめいている真下の雑踏とは隔絶されたものだった。
わたしは室内に視線を流した。
シングルサイズのベッドに、脚の短いテーブル、座椅子。すべてが白を基調とされている。テレビの脇には、背の高い組み立て式の白い本棚があった。彼の実家にあった物とは違う、見慣れない本棚だった。そこには大小さまざまな本が、眼前に広がるビル群のように並んでいる。
「本、増えたね」
わたしはキャンプ用のベンチから立ち上がり、不自然に冷やされた室内に戻った。
「ほとんど読んでないけどな」
本棚を眺める。彼の実家には、同じぐらいのサイズの本棚が三つあったはずだ。それらも、同じような白い本棚で、同じように書籍がぎっしりと敷き詰められていた。
「何か面白い本あった?」
わたしが窓越しに訊ねると、彼は大きく息を吸って、黙った。
「……そうだな……『南極ないない』って本は、まぁまぁ面白かったよ」
聞こえなかったのか、と思ったが、彼はすぐに沈黙を割った。思い出す書籍の量があまりにも多くて、少し考えていたのだろう。
「南極ないない? あるあるの逆ってこと?」
「いや、違う。そうだとしたら無限に書けるだろう。東京ないない、離島ないない、文豪ないない……。そうじゃなくて、南極でもできそうだけど実はできないことや、南極にもありそうだけど実はない物、みたいなのを五十個ぐらい紹介してる、そんな本だった」
「あー、南極の氷は溶かしてそのまま飲むことはできない、みたいな」
わたしは『南極ないない』を本棚から探した。彼は書籍を作者順に並べたり、語順で並べたりはしない。強いて言えば、読んだ順で並べている。だから、彼の本棚は相変わらず、教科書や学術書、問題集、小説、雑誌などがい交ぜになっている。
「そう、よく知ってるな」
「昔、なんかのテレビ番組で観ただけだよ」
上の片端から九十九つづら折りになぞるように本棚に視線を這わして、わたしは『南極ないない』と書かれた背表紙を見つけた。それは三段目の、『存在と時間(下)』という本と、『素数ゼミの謎』という本の間に挟まっていた。
「ユウジ、学部どこなんだっけ」
わたしは問う。彼の本棚からは、彼自身の専門分野が全く見えてこなかった。
「学部にはまだ分かれてないんだけど、理科一類だね。東大は最初に専門分野を決めて入学する、というよりかは、まずは全員、教養学部みたいな感じで、一年半ぐらいかけて幅広く各分野の入門編を触ってみて、その後に専門分野を決めるんだ」
「へぇ、そうなんだ。学問の入り口をまず一通り見るんだね」
「そういうこと」
彼の実家の本棚もそうだったが、それにしても、いろいろな本がある。本屋さんに置かれている各コーナーの書架から数冊ずつ抜き取ってきて、それらを一冊の本棚に詰め込んだような。数学や物理の専門書が大半を占めているが、自然科学系から建築系、IT系の問題集、医学、言語学、哲学、歴史、小説など、本棚は文系理系を問わず多種多様な本たちに彩られていた。
「相変わらず、ビジネスや自己啓発の本は読まないんだね」
「うん、必要がないからね。文章を読めば、その言葉の奥から、書いた人の哲学的な思想はなんとなく浮かび上がってくるものだろう。それを話半分に捉えられれば、それだけで充分だよ」
「川端康成という人間の思想は……」
「川端康成という人間が書いた本を読めば大体解る」
川端康成という人間の思想は、川端康成という人間が書いた本を読めば大体解る。
これは、わたしたちが中学生ぐらいの頃から常々言っている彼の口癖だ。
「成功する人の特徴」であったり、「あの世界的大企業のビジネスモデル」など、第三者が詳細に分析したようなビジネス書籍が世の中には溢れているが、彼に言わせれば、それらの中に本当に有益な情報はないらしい。その人に関してまとめられた別の誰かが書いた本や、その会社に関してまとめられた別の誰かが書いた本、そんなものに眼を通さずとも、その人自体、その会社自体を自分の眼で視れば、なんとなく解るのだとか。
「変わらないね」
「ああ、そういう感じね、ぐらいでいいのさ。勉強も、仕事も、生きているということも」
そんな鷹揚に構えた人に面白かった本を訊いて、返ってきた答えが『南極ないない』なのだから、これがまた面白い。
「仕事は? やっぱ東京で就職するの?」
「決めてはないけど、東京ではしないだろうね。東京は、なんていうか、性に合わない。大学の奴らと話していても、なんか、みんな頭のどこかで焦ってる感じがするんだ。早くお金を稼いで、早く地位を築いて、いついつまでに結婚して子ども産んで、みたいな人生設計を堂々と語ってくる。俺はもっと、こんなふうにボケーッとしていたいから、ある程度学問を修めたら、島に戻るかも」
「そう、みんな喜ぶね」
わたしは『南極ないない』を本棚から抜き取って、適当に開いたページにふっと視線を落とした。
「ああ、そうだといいな」
彼がベンチの上で寝返りを打つ。
どちらか一方が喋りたい時に喋って、それ以外の時間は黙り合う。島で会っても、東京で会っても、わたしと彼の過ごし方は変わらない。
「そういえば、せみが鳴いてないね」
「ああ、代々木公園とか、木が生えてる場所にはいるんだろうけどね」
「ビルしかないから、蝉もいないのかな」
「恐らくそうだろうけど、今この瞬間だけはメスの蝉しかいない、という可能性も否定できない」
「あぁ……」
わたしはふと、島にいた頃に彼から聞いた話を思い出した。
蝉はオスしか鳴かない。ここら一帯で蝉の声が聞こえないのは、蝉が止まれる木がないからではなく、鳴かないメスの蝉で溢れているから。
「そんな考え、一生かけても出てこないよ」
オス蝉のいない東京。メス蝉しかいない街。そんなふうに考えたことなどあるはずもなく、思わずわたしは吹き出してしまった。
「暇だからな。変なことばかり考えてる」
彼がどんな顔をしているのか見たくて、何気なく窓の外を向くと、さっきまではなかった夏雲がひとつ、青藍の空にぽつりと浮かんでいた。


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