源氏は「心苦し」(「いたわしく気の毒なこと」)と思う(薄雲)ー修正済み

「ドイツ語は格変化もする屈折語で、主文・複文で語順も違うので、どんなに長くなっても文の構造がわかるが、日本語は膠着語で、ドイツ語の句読点を律儀に反映させようとすれば、どの言葉がどの言葉にかかっているのか、チンプンカンプンになってしまう」(光文社古典新訳文庫版城、586)
とわざわざ丘沢静也の「訳者あとがき」に頼るまでもない。
考える場合には、思わぬきっかけがbreakthroughを促す(ここでは「大きな変革」というより、Webster3の定義に含まれるような「突然の前進」ではある)。
ドイツ語(や英語やフランス語など)は、主格が構文を統制するように意味のつながりを保つ(そのための装置が整っている)ように見える。
日本語の長文では、そうでないゆえ「どの言葉がどの言葉にかかっているのか、チンプンカンプンになってしまう」というような誤解しやすく説明がされたりする。カフカは「長い息で途切れることなく読まれることを期待していた」587)のだから、翻訳でもそれが読み取れる必要を訳者は述べている。決して一般論を主張しているのではない。
反転して、日本語では文の各所に「切れめにしてつなぎめ」(以下、「つなぎめ」と呼ぶ)があるから、これを的確に捉えてこそ読み進めうる、と読み替えねばならないと感じた。中古文(大ざっぱに平安時代の散文)から現代の句読点を取り払っても、つなぎめ(とりわけ助詞)からどう進むか探らねばならない。
高校の古文で品詞分解をするのと異なり、内容のつながりを見つけるために文章を細かくわけることを思いついた。

【薄雲にある「心ぐるし」】
源氏は、明石君との娘(明石姫君)を自分が引き取って(母親から切り離して)育てることを考える。明石から呼び寄せながら明石君とその母および姫君を入京させずに住まわせていた大堰まで引き取りに出向く。

以下で検討する必要から、句読点および改行をそのまま示す。句読点や改行などは元の文章(源氏物語の現存する写本)に当初からあったのでないから、取り除いて理解できるかどうかはおろそかにできない。

【「心ぐるし」の意味】
「《相手の様子を見て、自分の心も狂いそうに痛むのが原義。類義語イトホシは、相手の状態を見かねて、目をそらしたい気持、自分の身については、困ってしまう気持、ラウタシは、か弱い相手をかばってやりたい気持をいう》①胸がつまる。心も狂いそうになる」「③気の毒だ」(岩波古語辞典「こころぐるし」)
「①心に苦痛を感ずる。胸が痛い」「②人の身の上を思って気遣わしい。気の毒である」(日本国語大辞典「心苦しい」)

【桐壺での用例】
「若宮のいとおぼつかなく露けき中に過ぐし給ふも心ぐるしうおぼさるゝを」「おぼ思しつゝまぬにしもあらぬ御けしきの心ぐるしさ」に、うけ給はり果でぬやうになんまかで侍りぬる(岩波文庫版源氏物語1、32)
注意しておきたいのは、「いたわしくお思いだから」(33注6)と簡単な説明があるにすぎないことであろう。幼い源氏と桐壺帝を見ての思いを描写しているということすら、わざわざ注記していない。

【薄雲の用例1】
「よそのものに思ひやらむほどの心の闇、おしはかり給ふにいと心ぐるしければ、うち返しの給ひ明かす。/『何か、かうくちをしき身のほどならずだにもてなし給はば。』/と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひあはれなり」(3、292)
岩波文庫は句読点と改行をほどこし、明石君の発言とした部分を引用のように示す。ことさら引用というのは、「『ば』が已然形を承けて成立する条件句は既定条件を示し、『既に…だから』という確定条件を示す」(岩波古語辞典「基本助詞解説」)のに、ことばを濁す(以下を省略するような)形で書かれているからだ。
「聞こゆ」を「貴人に対して、自分の思う通りに直接に物を言うのは失礼だったので、誰の意志ともなく自然に(相手の)耳に入るようにする意」(岩波古語辞典「聞こえ」)という用法かはただちに結論を出せないとしても、源氏の意志に背くことをはっきり申し立てにくかろう、と想像することならできる。
こうした現代の一般読者向けの措置には、曖昧おぼろに表現しているかも知れないという推測・想像をはばむのを、かきわけてゆくようなものか。
「よそのものに思ひやらむほどの心の闇」(「(姫君を)人手に渡して遠くから思いを馳せるであろう、その母親の心の惑い」293注5)という明石君のつらい思いとしては、注の説明・現代語訳よりはるかにぼやかした文みに見える。
あえて岩波古語辞典の説明語(よそ・もの)を用いれば、「かけはなれて関係のなくなってしまうもの(「形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて」)になお思いを向けてしまう、といったはっきりしない心の裡」にといいたくなってくる。
源氏が子を手放す母親を思いやった。ゆえに「(源氏は)繰り返し説得した」という。
ところがさらに「せめて(私のような)取るに足らぬ身のほど[位階?]ではなく(姫君を)扱ってくださるならば」(注7)というのだから、心の闇は払拭できていない。
ここの「心苦し」はもっぱら相手について推量したことをいうだけで、それがそう判断した当人の心を動かすような強い認識になっているといえるのであろうか。
当初は、源氏が果して気の毒と本気で思う立場であろうかという違和感をいだいた。

【薄雲の用例2】
明石君説得の日中か遅くとも数日後、源氏は明石姫君を車に乗せて京へ出発する。引き取るのが目的で、曲がりなりにも母親の同意を得た以上、もたもたする理由はあるまい。
「道すがら、とまりつる人の心ぐるしさを、いかに罪や得らむとおぼす」(294)
このあとただちに到着の場面となる。
もはや明石君の「心苦しさ」とさらにまとめてある(名詞化の「さ」を用いているので、抽象度を高め、情報の削減も進んでいると考えることができる)。
読点を入れてあるように、「(源氏は)大堰に留まった明石君のつらい心中を(思い、そのような目に遭わせて自分は)どんなに罪の報いを受けるだろうか、とお思いになる」(295注7)というのは、明石君と源氏と二人についての思いとしてある。なぜそのように読めるか構文も含めて特段の説明はないので、通説なのであろう(以下、「定説」と呼ぶ)。
「『を』は、もと間投助詞であったものが格助詞風に用いられ、それが更に接続助詞にも転じたと考えることには、まず異論はなかろう」(古文解釈のための国文法入門、278)では始末に終えない感じがあるものの、ここでは「心ぐるしさ」の原因が罪(何らかの報い)になるという推論を表している。「中古ではなお、格意識のほかに、若干の詠嘆強調のきもちもそれに伴ってい感じられていたことを推測させそう」(274)にも整合といえる。
自分の子を源氏に委ねることが、だれのせいかという判断はどのように裏づけることができるかという点こそ、着目すべきところである。

定説:明石君の姫君手放し→源氏に科あり
仮説:明石君の姫君手放し→明石君に科あり

定説は、「心ぐるし」が対象からえた判断だから、原因が自分(源氏)にあると導き出しているようにみえる。
仮説(仮の説)は、「心ぐるし」の原因(である行為)を背後に想定するのだから、行為についての因果が取り上げられる。
つまりいずれも、相手への推量から見出した因果関係の原因に何を設定するかという点で、同形の論理による。それを決定する描写や説明はない。

【薄雲の用例解釈】
結論を出す決定的な論拠は見出しえないものの、「心ぐるし」をめぐるくだりがあっさり次の場面に切り替わり、判断した者に深く刻み込まれるような印象を読み手に残さない。つまり源氏にとって、明石君の心の闇は大して関心事でなかった(両者の間にかなり大きな断絶が見出せる)という判断を今はいだいている。

以下は割愛して、続編「心ぐるしさ」(気の毒)は何についての判断か(常夏)」をまとめた。

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