女三宮に向けた源氏の興味(若菜上)

源氏物語中盤の若菜上は、完成した秩序(准太上天皇の地位と六条院の確立)がゆらぎだして、物語が転換し始めるという意味でも要に位置する。折口信夫ならずとも注目してしまう。
そのうちの一節がよくわからない。といって大問題があるのでないらしく、一般向け刊本でも現代語訳と意味の解説がきちんとある。
とりあえず本文を見てゆこう(以下で主に参照・引用する場合は、現行の岩波文庫『源氏物語』を「I巻数」、新潮日本古典集成の『源氏物語』「S巻数」と略称する)。

若菜上が始まってすぐ(岩波文庫でも最初の頁が終らぬうちに)「御子たち[朱雀帝の子]は1、春宮藤壺をおきたてまつりて、女宮たちなん四所おはしましける。その中に、藤壺と聞こえしは2、先帝の源氏にぞ3おはしましける。まだ坊と聞こえさせし時まゐり給ひて、高き位にも定まり給ふべかりし人の、取り立てたる御後見も4おはせず、母方も5その筋となく物はかなき更衣腹にてものし給ひければ、御まじらひの程も6心ぼそげにて、大后の、尚侍督をまゐらせたてまつり給ひて、かたはらに並ぶ人なくもてなしきこえせし程に、けおされて、みかども御心の中(うち)にいとほしき物には7思ひきこえさせ給ひながら、下りさせ給ひにしかば、かひなくくちをしくて、世の中をうらみたるやうにて亡せ給ひにし、その御腹の女三宮を、あまたの御中にすぐれてかなしき物に思ひしかづききこえ給ふ」(I5、132‐134)と女三宮の説明がある。
いよいよ源氏に後見(実態は降嫁)を依頼すべき段階になって、「故院の御時に、大后の、坊のはじめの女御にて、いきまき給ひしかど、むげの末にまゐり給へりし入道の宮に、しばしは8おされ給ひにきかし。この御子の御母女御こそは9、かの宮の御はらからにものしたまひけめ。かたちも10、さしつぎには11いとよしと言はれ給ひし人なりしかば、いづ方につけても12、この姫宮、おしなべての際には13よもおはせじを」(I5、172-174)といった発言がある(源氏によると解されているから、源氏の認識の描写である)。
「この姫宮、おしなべての際には」云云について「語り手の推量の形で、源氏の気持を曖昧に述べて終る」(I5、175注11)という書き手の注意喚起が見える。
引用文の下線箇所(便宜のため数字を振る[下線が使えないので、引用中の係助詞+数字部分を太字にした。以下も同じ])は[係]助詞で[「係助詞」について考えだしたとたん躓く]、これも書き手が読み手に注目を喚起している。
以前に読んだ「〈山本は来た〉といわれても、同じ仲間でなければ、だれが来ていないのかわからない。しかし、〈先生は来た〉なら、来ていないのは生徒であり、〈男はつらいよ〉なら、楽なのは女である。このように、甲乙の対が社会通念として確立されている場合、〈甲は〉と表現されれば、欠落しているのは乙である。/『春は来にけり』とは、〈春は確かに来ている、それなのに、アレがまだ来ていない〉ということである。そして、アレがなにをさしているかは、当時の人たちなら容易に特定できたはずである。したがって、当時の社会通念として、『春』とともに来ることが期待されていたのがなにであったかを解明すれば、この和歌表現が理解できるはず」(みそひとの抒情詩、100-101)から考えることにしたい。
[係助詞による強調表現では強調されることがらとその対照が対として、必ずしも明示されないが、見出されるという指摘は、先へ進む突破口になった。]
なお格[係]助詞「は」以外に、強調の「ぞ」「も」「こそ」も加えている。

(1)「源氏にぞ3」(「先帝の御子の源氏でいらした方だが」S5、11注9)は「源氏に(←なり)+ぞ」と「強く指示・指定する意」(岩波古語辞典「基本助詞解説」ぞ)と考えることができそうだ(古文解釈のための国文法入門「『ぞ』はある一つの事物を取り出して強く指示する意をあらわす助詞」324)。

(2-1)「も」は4〜6のいずれも否定に使われ、「承ける語を不確実なものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導」き、さらに「或ることを確実であると確信できない意味を表わす『も』の用法から、『これもあれも』と不確実なものを二つ並べる気持を表わし、『も』は並立の意味を表わしたり、類例を暗示したりする」(岩波古語辞典「基本助詞解説」も)に該当するようだ(古文解釈のための国文法入門「『も』は、元来、感動または詠嘆の声が助詞になったもの」319)。

(3)「こそ9」に関しては「古今集では『こそ』の係り結びの大部分が単純な強調である。しかし源氏物語では、『こそ…已然形』の係り結びによって、運松文末が単純に切れず、『…のに』『…だけれど』などの意で下につづくことを表わし、やや古風な、しかも粘着性のある文体を形成している。『こそ』の係り結びは鎌倉時代になると、単純強調の用法が圧倒的多数を占めている」(岩波古語辞典「基本助詞解説」こそ)をとりあえず受け入れておこう(古文解釈のための国文法入門「『こそ』は『ぞ』より強意が一段と強いといわれる係助詞」349)。

当然ながら何をどのように強調するかも書かれている。
「は」がどのように使われているか。

(4-1)「御子たち[朱雀帝の子]は1」では「女宮たちなん四所おはしまし」以外(の御子=春宮)を除いている。

(4-2)「藤壺と聞こえしは2」は入内後に中宮となった入道の宮でない(別な藤壺女御)と特定する。

(4-3)「いとほしき物には7」(「〔藤壺[女御]を〕お気の毒な方とは」S5、12傍注)といいながら、「下りさせ給ひ」藤壺宮に代えたと暗示される。
「(藤壺女御は朧月夜に)圧倒されて。…[澪標で]朧月夜に圧倒されていたのは春宮の母女御(承香殿)。藤壺女御も、寵愛されていたものの、朧月夜に圧倒されていたであろう」(I5、135注1)は、物語の齟齬ないし不足と判断しての補足であろうが、藤壺女御について語るだけの意義がないと見ればよい。

(4-4)「しばしは8」を「(藤壺宮)にしばらくは圧倒されて」(I5、注5)「一時は圧倒されなさった」(S5、34注3)のように解するのは、当然のように見える。
「しばし」のうち係助詞を伴う例を確認しておこう。

(5a)桐壺「しばし夢かとのみたどられしを、やうやう思ひしづまるにしも」(I1、32。「しばらくは夢かとばかり辿らずにいられなかったのが」33注3)
(5b)夕顔「あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしおぼえ給ふ」(I1、332。「当座はお感じになる」S1、167傍注)
(5c)若紫「心ぼそくとも、しばしかくておはしましなむ」(I1、466。「父宮邸へすぐに移ることを拒み」467注9)
少し前に「かゝる所にはいかでかしばしをさなき人の過ぐし給はむ」(I1、464)という「しばし」のまったき否定例がある。
(5d)蓬生「そのなごりにしばし泣く泣くも過ぐし給ひしを、年月経るまゝに、あはれにさびしき御ありさまなり」(I3、100。「(末摘花は)しばらくは泣いて過ごしておられたが…年月が経つにつれて」101注4)
(5e)関屋「しばしこそ、さのたまひしものを、などなさけづくれど」(I3、168。「しばらくのあいだだけは」169注10)
(5f)薄雲「しばし人々求めて泣きなどし給ひしかど…上にいとよくつきむつびきこえ給へれば」(I3、296)
(5g)朝顔「しばし、さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」(I3、376)
(5h)少女「故おとゞのいましばしだにものし給へかし」(I3、518、「亡くなった祖父大臣が、せめてもうしばらくご存命だったら」519注12)
(5i)玉鬘「しばしこそ似げなくあはれと思ひきこえけれ」(I4、30。「最初しばらくは…いかにも不似合いで…不憫と思い申したが」31注3)
(5j)行幸「猶しばし御心づかひしたまうて、世に譏りなきさまにもてなさせたまへ」(I4、452。「今のまましばらくはご用心なさって、世間の批判を浴びないように」453注11)
(5k)真木柱「かやうに御心やりて、しばし過ぐいたまはまし、と思ひあへり」(I4、578)
短い時間だと強調してあるのに加えて、終了時期も推量できるように書かれている。

桐壺院は藤壺宮をさらに中宮へと高めている一方、藤壺女御寵愛の凋落が短かったような記述はない。
ゆえに時間の短さは、寵愛を失うまでの期間を取り上げていると考えることが可能になる。

(4-5)「御母女御こそは9」によって「藤壺宮と藤壺女御は異母の姉妹」(I5、175注7)「ほかでもない、あの藤壺の宮の御妹君でいらっしゃるはず」(S5、34注4)という重要な事実が語られる。
ここで奇妙な語り口に遭遇する。
「後継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはならない。それはどんな子か。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない」(平安人の心で「源氏物語」を読む、5)のだから、「桐壺帝が『いとやむごとなき際にはあらぬ』更衣に没頭したことは、掟破りともいうべき許しがたい事件」(6)ということになる(「いと…際にはあらぬ」については改めて考える)。
というような后であるから、物語中で名指しされる女性の系譜が曖昧なはずはなかろう。
ところが「御母女御こそは、かの宮の御はらから」と断じた次の瞬間、「ものし…けめ」とぼやかし、さらに「よもおはせじを」で終える。実際に曖昧というより、ぼかすのが会話のたしなみと受け取るのがよいのかも知れない。
ついでながら源氏の相手となる高貴な女性はほぼだれもが安定した支えを欠く。母である桐壺更衣、桐壺帝亡きあと出家する藤壺宮(先帝の四宮)、出産に物の怪に取り憑かれて亡くなる正妻の葵上、春宮を失い源氏とこじれる六条御息所、みずから(朱雀帝と源氏の間で)浮遊するような朧月夜、後見すべき実の父から切り離された紫上、生んだ子を自身で養育できず源氏とのつながりが名目化した明石君、父に見捨てられていた玉鬘、父朱雀院の死を前提に源氏へ委ねられた女三宮などなど、たやすく列挙できる。

(2-2)「かたちも11」は系譜に容貌も取り上げるという意味で、一種の強調である(ただし中心問題でないかのごとく、強調する意義を弱めているというべきか)。

(4-6)「さしつぎには12」を「容貌も、藤壺宮についではまことによい」(I5、175注8)「藤壺の宮についでは」(S5、34傍注)と解するなら、係助詞「は」はどのように働いているのか。
直前で「入道の宮に、しばしはおされ」(174)と話題にして、桐壺帝の後宮が入道宮を寵愛の頂点にしたと明らかになっているから、その他の「いきまき」の続かなかった女御たちをまとめて「さしつぎ」になる、と推測できる。
藤壺宮という後宮の寵愛最上位からすれば、次だからといって必ずしも近くない、と(話し手の源氏か語り手なのかさだかでないものの)ほのめかしている。
寵愛の第二位(集団)とわざわざ強調した書き方、と見る方が適切であろうか。
「は」は以上のように強調する。
[「さしつぎ」に関しては吉海直人『「源氏物語」の特殊表現』が検討している。「すぐ次」でないという主旨なので、別に紹介するつもり。]

(2-3)「いづ方につけても13」は、「父帝の血筋からも母女御の血筋からも」(I5、175注9)と解するのは、「《もとは不定の方角。さらに人や事柄についてもいう》どの方。どちら」(岩波古語辞典「いづかた」)という曖昧な(母の血筋が父のより重要といっているのかも知れない)表現を不用意に限定するものだ。「どちらにしても、女三の宮は、ほかでもない、あの藤壺の宮の御妹君でいらっしゃるはずだ」(S5、34注5)と明示されていない。
つまり遠いようでもあり近いようでもある[と説明を補足した、とすべきかと思う]。

(4-7)「おしなべての際には14」に関しては「いと…否定辞」という用法が参考になるのでないか。
「《打消を伴って》たいして」とすれば、「《極限・頂点を意味するイタの母音交替形》…①非常に。ひどく…②全く。ほんとうに」(岩波古語辞典「いと」)の否定を限定しすぎでなかろうか。極限状態の否定には、極限であること自体の否定と、極限ぎりぎりでないが極限の否定に近いのでない、という二方向がとりあえず考えられる。
「いとやむごとなき際にはあらぬ」(S1、11。「それ程高い身分ではなく」11傍注)は桐壺更衣を、女御・更衣からなる後宮構成者集団で位置づける描写である。「女御、更衣あまたさぶらひ」を承けているから、「『女御』は、天皇の妃で、皇族、大臣以上の家の姫がなり、この中から皇后が選ばれる。『更衣』は、女御の次で、大納言以下の家柄から出る」(11注2)も格付の上から下への記述として考えた方がよいと思う。
特に実在した当時の社会と別であると書かれていないので、物語へ持ちこんでさしつかえないとすれば、女御・更衣の間にはっきり格差はある(ただし排除されるほどでない)。
「並々の美しさではまさかいらっしゃるまいに」(I5、175注10)も、並の容貌集団のはずがないとほのめかすのは、最上位容貌集団でない可能性が出てくるのでないか。

このように見てくると、女三宮の位置(格付)が下方へ移動して最上位でないとなったため、ならば容貌などがどのあたりかに対する好奇心がかきたてはじめた観を呈しているようだ。

若菜上の冒頭で主な登場人物について説明し、しばらくしてほぼ同じような説明をする(源氏の語りには桐壺帝のきさきである弘徽殿女御が出てくる)。これが物語にとってどのように機能しているかは、また別に考えるつもりでいる。

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