【歌を読む】あさがすみへだつるからに春めくは外山や冬のとまりなるらむ
「朝霞が外山(里に近い山)を立ち隔てると共に春めいてきた。外山は冬の行き着く所なのだろうか」(藤原定家全歌集、上11)はすっきり納得できるのかしら。
「立ち隔てる」というのは、外山を何かから離して行き来が困難と理解するとして、何との間にあるのか示さなければ、空間での距離がはっきりしない。
朝霞は、詠み手の位置(仮に「ここ」としておく)を近い山ですら遠くに隔てている、と解することもできる。空間として遠いのでないのに、見えなくして遠ざけている。
そのさまからいえば、ここで春らしくなってきたのに外山ではまだ冬のままと思ってよいのでないか。
定家は、拾遺愚草の最初である初学百首の始まりで二つ続けて、春がきたことを推測していることになる(語感としては、わざわざそう考えたらしく思える)。
朝霞が、どこにあるかもよく知っているのに見えなく、どこともわからぬようにしているから、春らしくなってきたというのは外山をまだ冬のままにしている、と考えてみたところだ。