「超感覚性経験」から遡る(常夏)あるいは(あとの経験によって)補足する

「こころはからだの状態を感情として経験し、からだを取り巻く外の世界を心像として経験します。そしてこの感情経験と心像経験に基づいて、からだと外の世界の関係を知り、からだを環境に適応させます。このこころの働きが広い意味での『知性』です。」(「気づく」とはどういうことか、219)
「感情によって、われわれは自分の状態を『知る』ことができます。たとえば、『あ、アツッ!』と感じることで、こころは、からだの一部に生じた物理・化学的な異常を知ります。/心像によって、われわれは自分のまわりにある事物を『知る』ことができます。…/さらにこころは、感情や心像を語心像ににまとめる、というウルトラ技を持っています。具体的で個別的な外の世界の出来事の経験やからだの出来事の経験を音韻心像という聴覚性経験(名前)で包むことで、直接的で感覚的な印象経験を、やや間接的で抽象的な経験に変えてしまいます。外部の事象や内部の事象を、語心像という新しいやりかたで『知り直す』のです。」(220‐221)
「語心像は、音韻心像(記号)と感覚心像の結合体ですから、意味経験そのものですが、音韻心像のような人為的心像でない、通常の感覚性の心像も、時と場合によっては記号として働き、意味経験を生み出すことができます。」(222)
「記号やシンボルを操作することによって、われわれはさまざまな事象が、なんらかの関係で結ばれていることを知ります。この働きが『思う』であり、『考える』という経験です。」(224)

この本のまとめに当るところを書き写した。
脳内の神経活動から言語(による外部への)表現までがこのように変換を続ける過程とすれば(自分の「体内感触」もそんな風に感ずる)、ことばから「真の意図」へ遡るのは、中途の各変換がどれも不可逆らしくて、不可能と思える。

源氏物語は桐壺が「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごなき際にはあらぬがすぐれて時めき給ふありける」と始まる。「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」(「明暗」、定本漱石全集11、3)と同様、いきなり物語の中心場面に登場人物を据える。
「昔、式部大輔で左大弁を兼任していた清原の大君は、皇女の北の方との間に男の子を一人持っていた」(角川文庫版新版うつほ物語1、121)は、登場人物より前にその系譜を示す。
通い婚を説明せず(とある解説によれば、「当時は招婿婚(婿入り)で婿は妻のもとに夕方に通って来て一晩を共にし、翌朝辞去する風習であった」講談社学術文庫版蜻蛉日記、40)、その例外である後宮も説明せず(注釈として、「『女御』は天皇の寝所に侍する女官。…『更衣』も天皇の寝所に仕える女官」源氏物語注釈1、24注2)、したがって当時の読者にわかりきった社会の事実を物語にいきなり持ちこんでいる、と考えることができる。
特記されなければ史実で物語内の説明に代えている、とひとまず考えてよい。

古典セレクション版
「さてここながらかしづき据ゑて、さるべきをりをりにはかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや、かくまだ世馴れぬほどのわづらはしさこそ心苦しくはありけれ、おのづから、関守強くとも、ものの心し知りそめ、わが心も思ひ入りなば、繁くとも障らじかし」(源氏物語7、152‐153)

現代語訳「こうしてこの邸に住まわせたまま夫を通わせて大事に世話をし、適当な折々にこれということなく忍び逢い、なんぞお話し申してこの気持を慰めることにしようか、今のように姫君がまだ男女の情を知らないうちに手出ししてなびかせるのは面倒だし、またかわいそうに思えるけれど、やがて夫を持つ身ともなれば、たとえ関守のきびしい見張りがあろうとも、女もしぜん人情が分ってきて、こちらでもいたわしく思う気がなくなるわけだし、いかにも人目繁くともさしさわりはあるまい」(153)

源氏物語の現代語訳が、どう読んで意味をつかみとったか示しているとすれば、それぞれの微妙な違いじたい興味をかきたてる。
たとえば「夫を通わせて」は、現代語訳で必要とされた補足かつ説明ということになる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               「やがて夫を持つ身ともなれば」と源氏は思案を進める。とはいえ、「玉鬘を六条院に住まわせたまま蛍宮か大将かを夫として通わせるようにして」(152注13)から「『関守』は、玉鬘の夫」(152注16)まで数行しかないのだから、読者の記憶力を心配していただきありがとう。
蛍宮に関しても、臣籍降下の必要もない無難な人物であるとか、源氏の弟から寝取るという構想なのかとか、などなど可能な連想は際限なくある。
主人公の言行は現代人にとってそれなりにあるいは相当にやりたいいいたい放題に見えるから、変態度を高めるのも現代語訳の匙加減によるとしても、補足し説明に励むと破綻をきたす可能性は大きくなる。
(1)玉鬘を六条院に住まわせたまま忍んでゆくのがよいけれども、(2)玉鬘はそのへんのことがわからなくて困るが、男を知れば万事解決(かつて少女をさらって自分好みにした成功(誤変換注意)体験を連想してよいのかわからない)と進んでゆくのだ。
書き手の意図を直接知ることはできないが、
「わたしが気がつく前の赤鉛筆は、わたしの視野に入るすべての事物とともに、ぼんやりした感情(視覚性感情)の凝集としか経験されていません。わたしの注意がこの事物を捉えたとたん、『いま・ここ』にある赤鉛筆という視覚性のかたち(感覚性心像)が立ち上がります。さらにこの視覚性のかたちの経験に合わせて、他の感覚性の経験が立ち上がり、超感覚性の『赤鉛筆』概念が経験されることになります」(198)
のように思考が進んでいるのを表現している、とは読める。
つまり「作品」として読むからといって、とある箇所に何らかの表現が出現するのを軽く扱い、先立つように注解・補足・解説をするのにけっこう無頓着な気がしてきた。

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