【歌を読む】いづる日のおなじ光に四方の海の浪にもけふや春はたつらむ(藤原定家)
小松英雄が、たとえば立春というのは、季節の移りかわりの現象というより、暦を前提にした知識であるといった主旨を指摘していた。
じっさいおのずからわかることでなく、陰暦の正月は、陽暦よりほぼ一月遅れでやってくる(旧正月を祝うところでなければ、知らなくてもさしつかえない)。春分・夏至・秋分・冬至ですら、太陽を見ていればわかるようなことであるまい(現在は「祝日としての春分の日・秋分の日は、前年の2月1日に、春分の日・秋分の日の日付が書かれた「暦要項(れきようこう) 」が官報に掲載されることによって、正式決定となります」「日本の祝日を定めている『国民の祝日に関する法律』によれば、春分の日は『春分日』、秋分の日は『秋分日』を採用するとされています」国立天文台)。
とすれば
「立春の今朝、日の出の光はいつもと同じだが、それとともに四海にも、春がやってきたのであろう」(藤原定家全歌集、上11)
という説明は奇妙に見える。
歌を謎解きの一種といいたくはないものの、最後にようやく出てくる「けふやたつらむ」をいきなり「立春の今朝」と始めてよいのであろうか。
歌の語順にしたがえば、日の出の光がいつも通りであるのに(日の出として抽象化している)、眼の前の海の波についても(まだ抽象の波だ)今日は立春(新年という特別の日)としてよいのだ。
暦を知っているから旧年中から新年への移りかわりと考えることができるとは、貴族が儀式に参加できるということでもある。
「或る事実や状態が現在、現実になって存在しているであろうことを推量する意をあらわす」(古文解釈のための国文法入門、137)、「事実が、もし存在するとすればそれは現在すでに現実になって存在しているのであって、ただそれが果たして存在しているかどうかが確実でないので、それを『らむ』と推量するのである。つまり、存在するとすればそれは現在の事実であることを、果たして存在するかしないかについて若干の疑惑をもちながら、多分存在するであろうと推量する意をあらわすのが『らむ』であると言ってよい」(138)という「らむ」にぴったりの用例でなかろうか。