源氏物語注釈集成は欲しい、あるいはGemini 添削(心ぐるし)への愚痴
源氏物語に出てくる源氏の玉鬘への判断(心ぐるし)について書いた理由はかなり微妙なことであった。
定説に納得できないが、さっと調べたところ、どれもこれも同工異曲という意味で、実に堅牢と感ぜられた。
これを覆すのは大ごとだ…というか、他の読み方が可能ととうてい思えないほど。選んだ現代語訳は手近にあるという偶然である。にもかかわらず、三つにわけた(1)でもともと含まれていない(ばかりか必要と思われない)付け加えを見つけてしまった。
という次第でどうなったかといえば、定説の基礎(読み方)を掘り崩そうとすることになっていった。試行錯誤で見つけたのが、物語の進行を見つけて照合するというやり方である。
これは実際に書かれている文言を根拠にするよう目指している。(1)には玉鬘の結婚に触れていないのから離れないことで、現行の現代語訳や注解を妄想とする。
三人の小説家が女について書かれた箇所を源氏物語(男)研究者と同じように読んだのは、定説を吹きこまれたからだ(とひとまず妄想した)。
物語の進行という観点からすれば、(1)玉鬘を六条院に囲い込んでもものにできない(事態を認識)。(2)それは玉鬘が処女で、肉体関係の制約条件(現代語でいえば「愛」か)と無視できないからだ(原因を発見)。(3)結婚させれば障害は解消できる(解決策の構想)。
(1)で結婚を考えてしまえば、もはや玉鬘の位置づけを考える必要がなくなる。これは恣意といわねばならない。源氏の本性を隠蔽しているというべきか。
「心ぐるし」の解明ではある。しかし専門研究者でないから、用例を必要最小限にすら検討できない(いちおう若菜上の途中までは当ったが、すべてを説明する自信がないので、最初の例だけを取り上げてごまかした)。大野晋は源氏物語に出てくる語は用例が十分にあれば説明できるという(松尾聰は「『あいなし』は『源氏物語』だけでさえ百例を越すほど頻用されていながら、語義が不明でわれわれが困りぬいている中古語である」と批判しているが)。
というような事情は、AIの知ったことでない。
ということで結論を最後に書くと、「常夏」の一節に「結婚」を加えて読むのは、定説がどのように成立したかわからないためでもある。「そういうことになっている」場合、違和感=直感という一瞬の反応も生じにくい。
芭蕉の句には注釈集成が二度出ている(使いではあるが、内容に乏しいのが多い印象)。