Copilotの堂々巡り、でないのかなあ
自分の文章を改善させようと試みたところ、「源氏物語の描写がより一貫性を持ち、説得力のあるものになっています」という結語にこだわってくれるので、あれこれ指示をしてみた。
でもその最新版の末尾に、人間の根がつきた気分。
結語は変えずにジタバタするばかりかい(たとえば「源氏は明石姫君と対面し、具体的な行動をとったことが強調」といったところは残り続ける」)。
生成AIは、指摘に従って修正を試みるかのような表現を加えつつ、妙に生み出した表現に固執することがあり、アホかと人間には思える。
ここでどうしてそうなるか説明を求めても、大きな変更・修正は期待できない。
その通りです。源氏の行動が期待する結果をもたらしているかどうかについては、確かに疑問が残ります。以下にその点について考察してみます。
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薄雲(直前に「つらつき、まみのかをれるほどなど、言へばさ(れ→)らなり」と明石姫君の描写がある)
1「よそのものに思ひやらむほどの心の闇、おしはかり給ふにいと心ぐるしければ、」
2「うち返しの給ひ明かす。」
3「『何か、かうくちをしき身のほどならずだにもてなし給はば。』/と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひあはれなり。」(以下「姫君は何心なく」と姫君の描写に戻る)(源氏物語3、292)
常夏(源氏への態度が軟化した玉鬘に接し、「なほさてもえ過ぐしやるまじくおぼし返す」に続く)
1「さはまた、さてこゝながらかしづき据ゑて、さるべきをりをりに、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや、」
2「かくまだ世馴れぬほどのわづらはしさこそ心ぐるしくはありけれ」(以下、玉鬘が結婚した場合の思案となる)(4、296)
比較しやすいように番号を振りました。以下に、それぞれの場面の違いとその意味を詳述します。
薄雲では、明石姫君の様子から、源氏がその心の闇を察し、「おしはかり給ふにいと心ぐるし」と判断し、「うち返しの給ひ明かす」と対処した場面が描かれています。源氏は明石姫君と対面し、具体的な行動をとったことが強調されています。しかし、源氏の行動が期待する結果をもたらしているかは疑問が残ります。例えば、明石姫君に対して「のたまひあかす」にもかかわらず、彼女は「念じあへずうち泣く」という結果になっています。このことから、源氏の行動が必ずしも期待通りの結果をもたらしていないことがわかります。
一方、常夏では、源氏が玉鬘に対して内心であれこれと考えを巡らせています。大塚ひかりは「ひかりナビ」で、「源氏の思考は堂々巡りでだんだん辻褄も合わなくなったところで、作者が『とんでもない』と突っ込みを入れ、物語は新たな展開を見せます」と説明しています。これは鋭い視点で、源氏が玉鬘を結婚という社会関係の駒として処する新たな方向が見えてきたことを示しています。また、源氏の内省が堂々巡りであることも強調されています。
「まだ世馴れぬほどのわづらはしさこそ心ぐるしくはありけれ」を現代語に訳すと、「男女関係が結婚制度にすっぽり収まったりしない暗黙の世間知を知らぬのに由来する」「事態を簡単に解決できなくて厄介だ」という意味になります。源氏の自分本位な悩みに収まり続けていることが示されています。
このように、薄雲では源氏が具体的な行動をとり、常夏では内省を深める描写が強調されています。また、玉鬘の状況についても、源氏の態度から望ましくない状況に追い込まれていることが示唆されています。これにより、源氏物語の描写がより一貫性を持ち、説得力のあるものになっていますが、源氏の行動が常に期待通りの結果をもたらしているわけではないことも考慮する必要があります。