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スクリーニング

 スクリーニング。
 私が初めて目にしたのは大学の頃、確か遺伝子のスクリーニングというような使い方だった。最近は投資関連用語としても使われたりするようになったからだろうか、スクリーニングという言葉がかなり一般化された感がある。
 
 スクリーニングとは篩分けということだ。
 一定の基準値をもとにして取捨選択、選別することを指す。篩の網の目(メッシュ)を変えれば違ったものを選別出来る。篩の上を残すのか通過したものを残すのか。
 思えば、学校の試験も就職の採用試験も、あらゆるところで選別したりされたりすることに私たちは慣れ切っている。恋人も結婚相手もスクリーニングしなければ始まらない。それどころか今では、あなたへのおすすめというスクリーニングされた世界で生きていると言っても過言では無い。

 目で見て触れられる世界はもともと限られているので、意図的なスクリーニングが無くても一人の人間が全てを見通すことは出来ない。それなのに更にスクリーニングが必要になるのは、色々と多過ぎるからだ。人も情報も。或いは均質化し過ぎているかだろう。

 元々はついたてや仕切りという意味だったスクリーン。映画のスクリーンは仕切りというわけだ。こちら側の現実世界と向こう側にある映画の中の世界を分ける仕切りだと考えると面白い。日本の障子をペーパースクリーンと言われるからに、スクリーンという仕切りの概念は緩やかな区切りをも内包するようだ。障子を通じて感じる外の気配が室内を引き立てる。
 そういえば映画のスクリーンも背後のスピーカーから音が透過している。これは違うか。

 スクリーンという言葉は後に動詞として篩分けるという意味が備わった。あまり厳密に、そして過度に篩分けをすることは幸せとは別の方向に進むことになりそうで私は好まない。好まないとは言っても、それが当たり前の社会では許されるものではなく、網に絡め取られて捨てられる羽目になるのも時間の問題か。
 そんなスクリーニング社会に生きているのだ。

おわり

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