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日本では何故航空機を造れないか

 空の安全を確立した航空業界。
 自動車事故に会う確率が5000分の1であるのに対し航空機事故に会う確率は1100万分の1だという。
 空と陸では事情が違うとはいえ、一度墜落すれば多数の死者が出る航空機では、運用のみならず技術的にも様々な安全対策が取られている。

 例えば自動運転。
 最近では漸く自動車でも実現されつつあるが、旅客機では地上走行と離陸を除き、空の上から着陸までを自動で操縦出来る。自動車の自動運転は個人的にはまだ不安があるが、飛行機の自動操縦は安全性を高めることが目的になっている。つまり楽をするためではなく安全のために自動操縦を使うのだ。

 航空機の安全性能試験は徹底していて、そこまでするかというくらいに細かな決まりが定められているという。
 そんな分野は日本人が得意そうという印象を抱くが、最近の日本では航空機の開発があまり進んでいない。なぜだろうか。

 個別の要素技術については、その技術力に不足はないだろうと思う。しかし、その技術がそのままの形で航空機の開発に使えるかと言えば、そんなことはないだろう。それには経験が足りなすぎるからだ。
 例えば、作った部品単体では問題なくても、他の部品と組み合わせたときに試験をパスできなかったとする。
 試行錯誤の末にこれら2つの部品の組み合わせでは上手くいくようになったとして、さらにもう一つの部品を付加したら駄目だったとする。設計・製造の過程ではこういったことはしばしば起きるだろうが、300万点とも言われる部品数の航空機では、過去のノウハウ無くしては太刀打ち出来ないはずだ。
 自動車の部品数は3万点というから、それだけでも航空機の部品の多さが分かるが、それらの部品が飛行中にどういう影響を受けるかということだから、想定されるケースは途方も無い。
 
 安全には経験という要素が欠かせない。人の生死が関わる事故は、大きな失敗ということではあるが、経験の蓄積の絶好のタイミングだ。
 つまり私たちは、失敗から積極的に学び解決する方法論を持たなければならない。失敗したということをネガティブにとらえ過ぎて、それを改善の機会に繋げられないとすれば、その失敗は無駄にしかならない。
 何かミスをしたときには、反省をしろと言われる。この反省は失敗した個人に紐付けられがちだ。しかし個人の問題にしている限りは、社会はその失敗から学ぶ機会を得られない。
 仮に個人の問題にするにしても、失敗の経験値を持つことをメリットと思えるような雰囲気が必要だろう。
 甘やかしても良いことはないと言う声が聞こえてきそうだが、失敗をして萎縮する社会は、社会自体が萎縮していくはずた。
 いくらでも代わりの人材がいた時代ならともかく、人材量そのものが縮小するこれからは、社会が失敗からいかに学べるかが勝負な気がする。

 失敗を積極的にかてにする、そういった風土が定着しない限り、日本では航空機は造れないのだろう。

おわり

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