時間を巻き戻したいとき
皆さんは時間を巻き戻したいときが無いだろうか。
後悔とはまた違って、時間を巻き戻しさえ出来たらと思う事だ。
私にはあり過ぎて困るくらいだ。
昨夜の夫婦喧嘩だってそうだ。
そのきっかけとなる事を回避出来るストーリーの可能性は沢山あったはずだ。その複数有り得るストーリーの中から実際に起きた一つを選んだ神様を、泣きながら恨んだ。いっそのこと人生そのものを巻き戻したいとさえ思った。
人生ゲームの「振り出しに戻る」は罰だと思っていたが、案外救いなのかもしれない。
数多ある分岐点でどちらに進むかは、選んでいるというよりも選ばされていると感じる。朝目覚めてベッドから出るときにどちらの足を先に床に着くか。家を出る時間がいつもより何秒早いか、あるいは遅いか。信号が点滅しだしたとき止まるのか走るのか。風が吹いたときに乱れた髪をどちらの手でかき上げるのか。名前を呼ばれたときにコンマ何秒で反応できるのか。こうしたことは全て分岐点となる。その結果起こることや遭遇する出来事は全て異なり予測不可能だ。それを私は運命と呼ぶ。運命の連鎖は刻一刻連綿と連なっている。
私達は明日も昨日と同じような日々が続くと思って生きている。そう思わなければ不安で生きていけないないのかもしれない。けれど私達の人生は実は運命に操られている。
先日、運転免許更新手続きで例のビデオを観ながら、交通事故こそ運命のいたずらそのものだと思った。そのビデオでは小学生の息子を交通事故で亡くしたお母さんのインタビューで始まった。その手のビデオは流し見するものと思っていた私は、そのお母さんのエピソードを観ながら不意に涙ぐんでしまった。
朝、元気に学校に行った小さな息子。学校からの帰り道、横断歩道を通行中に交差点を右折してきたトラックに轢かれて亡くなってしまう事故に遭う。子供にとっても親にとっても、そして轢いてしまった運転手にとっても、後悔とは別の、時間を巻き戻したい衝動に駆られたのではないだろうか。きっと運命を呪ったのではないだろうか。
「誰も望んで起こす訳では無い事故で毎年これだけの人が亡くなっているのです」
ビデオの後の講師の言葉は私に重くのしかかった。
望まなくても運命は確実にあなたや私を振り回してくる。そして二度と巻き戻すことは出来ない。振り出しには戻れない。一度きりの人生は、不注意とすら呼べないようなことで掻き回される。
轢かれた子供はいつもより少しだけ早く帰れることが嬉しかったのかも知れない。子供を轢いた運転手も、直前に目にゴミが入っただけだったのかも知れない。意図して起きた事故ではなかっただろう。
私の夫婦喧嘩の行方は分からない。
もう一緒の生活を続けるのは無理と放った言葉は取り返せない。走馬燈のように過去の楽しかった思い出が蘇っては色が失われてモノクロに変わっていく。思い出すら私を苦しめる材料になる。
ルーレットを回して進んだマスが「億万長者になる」だとしても嬉しさは微塵もない。このゲームは全然楽しめないものになってしまった。
コマに乗っている子供たちにもさみしい思いをさせてしまうと思うと、やるせなさに顔を上げる勇気が持てない。
離れてしまった気持ちを元に戻すには、時間を巻き戻すしか無いと今では思っている。
おわり