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仲間意識のミサイル攻撃

 日本人の過半数が無宗教と言われるが、それはいわゆる宗教団体に所属していないと言うだけであって、日本人に信仰心が無いということではない。
 とすれば、一定の宗教観があるのは当たり前で、だからこそ神頼みもすればお祭りもする。

 自分の場合、お祭りは取り立てて好きではないし神頼みもしない。だから初詣や七五三もほぼ無縁だし、それどころか(家庭の事情もあって)先祖の墓参りという習慣も無い。一般の人から見れば非常識極まりないのだ。そうなると世間の仕来りや常識で知らないことが多く、それなりに困ることが無いこともない。しかし神社のお参りや葬儀の作法を前習えするのは何も私だけではないだろう。何とかなるものだ。

 強い信仰を持って入信した人でも、ある時ふと立ち返って全てが信じられなくなることがあるのだという。それまで人生を掛けて正しい行いと思ってきた貢物や献金が全く無意味だったと思うに至り、挙げ句は騙されたとなって教団を訴えることもあるらしい。可愛さ余って憎さ百倍ということだろうか。
 こうしたことは何も宗教に限ったことではない。きっと人間が持つさがだから日常の中にも潜んでいると思っておいた方が良い。

 考えてみれば信心というのは思い込みでしかない。つまり信じる側に宿るものだ。全ての人が持ち合わせている信じたくなる想いは、きっと生命としての根源的な機能の一つで、だからこそ教祖や教団の教えが実態以上に効果的に人々に浸透するのだろう。
 信じる力は、それを人と共有した時に倍増する性質もある。分かる人には分かるんだなぁなんて人に遭遇すれば分かり合えた気にもなる。
 簡単な言葉で言えば「仲間」ということだ。

 あらゆる事にローカルルールがあるのも仲間意識の現れだし、そのルールを暗黙のうちに知っていて従っている人がいれば、その人は仲間なのだ。逆にローカルルールを知らずにうっかり間違えても気が付いていないような人は余所者よそものだ。
 最近では同調圧力なんて言う呼び方をされたりもするが、これも守られるべきローカルルールのことを意味している。

 日本のローカルルールの一番外側の境界線は海岸線になっていて、それより外から来た人は絶対に仲間にはなれない点だ。そういった人達は外人さんと呼ばれ仲間意識から完全に排除される。仲間でないとすれば、要するにお客様ということだ。それが一周回って「親切」になる。それを世界では日本のホスピタリティと呼んだりするから面白い。

 そうなると微妙な立ち位置を迫られるのは日本在住の外国人。
 住んでいるだけでは駄目で、ローカルルールを理解して適切に実践出来るほどにならない限り仲間として受け入れて貰えないのだ。出身のお国によって違うだろうが、多分一番難しいのは自分の主張よりも周囲との調和を考えることだろう。殊更には意見を述べず遠回しに伝えたり、議論を避けたりするのはなかなか理解出来ないだろう。
 最近では日本人の中にも独自路線を貫こうとする人がいるが、日本で生活するには個性は邪魔になることはあってもあまり利点にはならない。少なくともあまり褒められる機会は無いはずだ。

 だから、別に仲間に入れて貰わなくても結構という天邪鬼な私にとっては確かにこの国は生きにくい。それでも私は日本という国のローカルルールを知っているからまだ良い方なのだ。
 狭い範囲で使われている文字通りのローカルルールがあること自体は世界共通で、日本に限ったことではない。日本の難しさはローカルルールをあからさまに教えてくれるのが親か学校の先生かその場の空気しか無いところにある。だから、外から来た人には過酷な世界だろうと思う。

 今は個人攻撃を容易にするツールがある時代。それは飛び道具として機能する。個人が曝されて特定の人達に余所者認定され易い環境とも言える。正義というミサイル攻撃を誰もがその場で簡単に出来る。だからこそ、利用には慎重になりたい。地球上にいる人はそれだけでみんな仲間なんだと思いたいものだ。

おわり

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