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箸が使える外国人
コンテンツ媒介型コミュニケーションしか出来ないと、コンテンツの無いコミュニケーションが出来なくなる。
ここで言うコンテンツとは、共有出来る情報や興味のこと。つまりコンテンツ媒介型コミュニケーションは、一致する趣味の話を通じて行われるコミュニケーションのことだ。テレビドラマを見るのを忘れた翌朝に友人との会話について行けなくなってしまうのは、そこで行われているのがコンテンツ媒介型コミュニケーションだからだ。
コンテンツの媒介なしに行われるコミュニケーションは、今では殆どない。その証拠に、趣味や興味や話題が合わない人と会話するなんてあり得ないと思わないだろうか。しかし、その感覚は四、五十年前には今よりもっと薄かった。何故なら、身の回りにいる世代も育ちも家庭環境も違った人とのやり取りが普通にあったからだ。今なら、同じ日本人でも知らない人に声を掛けたりしたら気味悪がられ、通報されることすらある。不審者として。
今では特別なものでは無くなったコンテンツ媒介型コミュニケーションが最初に広まったコミュニティは、マニアやオタクの世界だった。当時のオタクはキモい存在として世間から浮いた存在だったが、今はそこまでキモい存在として認知される人たちはいない。コミケやコスプレはカジュアル化して、オタクという言葉は無毒化された。
一方で、家族や知り合い、友達以外の人と交流することはまず無くなって、そうしたところではマニュアルに沿った会話が一般的になっている。それが当たり前のようになっているが、店頭で繰り広げられる機械的な会話が日常的にあちこちで行われているのは、世界では普通ではない。
コンテンツの媒介無くしてコミュニケート出来ないとすれば、立場の違う人同士や、意見の対立する人同士がコミュニケートすることは出来ないことになる。ある種の同質性が担保されていなければコミュニケーションが成立しないとしたら、普通に困ることになる筈だ。
利害関係の異なる人同士が議論を通じて妥協点を見出す過程が交渉であり、その結果、手を結ぶのが契約だ。妥協点は、互いの見解の共通点と相違点を並べて、共通点のみを抽出する作業の結果に見えてくるもの。つまり、背景が違っている者同士のコミュニケーションはコンテンツ媒介型とは真逆なのだ。
コンテンツ媒介型コミュニケーションが行き着くのは敵対関係の鮮明化、つまり互いの相違点のクローズアップだ。異なる意見を持っているだけで、お前とは合わない、となる。意見が異なる人とは相容れないどころか敵視して攻撃的にすらなる。意見そのものを攻撃するのではなく、人格を否定してかかる。それが普通じゃない? と思うかも知れないが、必ずしも普通ではない。
考えてみれば、日本人以外を受け入れることに拒絶感を示すのは、日本人が日本語や日本文化というコンテンツを媒介としたコミュニケーションに強力に縛られているからだろう。
日本語が喋れない外国人を見れば、ここは日本だぞ日本語を覚えてから来いとなる。見た目は日本人と大差無いのに日本語が喋れない人々の事は特に敵視したりする。
それどころか、日本人同士でも少し違った対応をすると、ここは日本ですよとたしなめられたりすることもある。
その反面で、日本が好きで、流暢な日本語を喋り、箸を上手に扱える外人さんは親しみやすく見られる。ここ日本に適合しようとしているからだろうか。
今どき箸が使える外国人は珍しくはないが。
おわり