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人は記憶で作られている

 記録というのは面白いもので、自然と忘れてしまうことはあっても、「このことは忘れてしまおう」と自らの意思によって忘れることはできない。嫌な思い出、不快な場面に限っていつまでも覚えている。
 パソコンのハードディスクのように、コマンドを実行して削除できればいいのに、と思わずにはいられない。

 これは伊坂幸太郎の小説『スピンモンスター』の冒頭部分だ。ただし、原本では「記録」ではなく「記憶」で始まっている。読んで違和感を覚えた人がいたとしたらそのせいだ。


 記憶も記録も人が行うことであるという点で共通しているが、記憶が人の属性であるのに対して、記録はいわば物である。

 記憶は他の人から見えないけれど、今のあなたを形づくる素材であり材料であり燃料でもあって、それをあなた自身が煮たり焼いたりすることで、他人から見えるあなたが出来上がっている。

 記録は後で読み返すことが出来る記憶の切れ端のようなものであるが、根本的に記憶とは違っている。記録あなた自身とは別のものとして存在し続ける。だから記憶はしばしば記録とは違っていて、「そんなことあったっけ」といくら思い返そうとしても思い出せないこともある。

 今では、スマホの地図アプリに残るタイムラインを見れば、過去のあなたの行動のことごとくをマップ上で把握することが出来る。過去にあなたが撮った写真が並ぶスマホのフォトアルバムを見れば、その時の光景を見ることが出来る。それらは記憶ではなく記録だ。

 そうした記録は、記憶を呼び覚ますスイッチとして当時を思い出すきっかけになることはあっても、現在のあなたが持つ世界のイメージマップとは完全には重ならない。

 仕事では記憶より記録と教えられた。
 記憶が個人のものであるのに対して、記録は他人と共有出来るからという理由もある。それと同時に、あなたの記憶はあなた自身によって都合の良いように解釈され、醜悪にデフォルメして歪められ、かつ、自然に消し去られることがあるからだ。
 それでも自分で書いたメモなのに字が汚くて読めなかったり、片言過ぎて意味が分からなかったりと、結局は記憶頼みになってしまって、記録も一筋縄ではいかない。

 記録はいざとなればコマンドを実行して削除することが出来る。と、思っているかも知れないが実際はもっと複雑だ。
 ハードディスク(HD)やソリッドステートディスク(SSD)に記録されたデータを完全に削除するには、その記録メディアを物理的に破壊するしかない。クラウド上に記録されたデータはアカウントを削除しても記憶メディアが破壊されている訳ではないだろう。逆に、残っていて欲しい記録がシステム障害やオペレーターのうっかりミス、サイバー攻撃によって消去されてしまうこともある。つまり、記録の利点と思われている、残り続けることや消去出来ることという機能は保証されているものではない。

 プライベートでは記録よりも記憶に焼き付けることを重視し、ビデオカメラのファインダーではなく自分の目で子どもたちの勇姿を見るようにして来たが、その記憶は年々薄れていくから思い出はどこにも残らない。

 でもそれでいいのだ。

 どうせ人は死んで記憶など無くなってしまうからということではない。今の私があるのは、過去に記憶となるような何かが起きてそれを経験したからで、記憶に残っているものも残っていないものも引っくるめて私なのであり、いつまでも覚えている嫌な思い出ですらも私なのだ。 
 私やあなたは、自分しか知らない記憶の粘土で作られている人形というわけだ。

おわり

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