人類の希薄化
人類の進化は、人類全体としての知識量を莫大に増やし、人類の持つ技術力を高めた。
その一方で個人を見てみると、こと自然の中で生きていくのに必要な知識や技術は著しく衰えた。火を扱えるようになって進歩した人類が、今やライターが無ければ火を起こすことは出来無い。スーパーが無ければ食べ物を調達することも出来ないし、ガスがなければ調理することも出来無い。もちろん、独りでは生きていくことは出来無い。
要するに、人類としての進化は個人の退化を意味している。個人の価値は希薄化する方向に進んでいる。人類にとってあなたは替えのきくパーツの一つに過ぎなくなっている。一人の人間にとっての人生の価値は変わっていないと思っていても、社会が要請するあなたへの価値は下がり続けている。
そうした中で私たちが生きる術を身に付ける事に意味があるだろか。
私はあると思っている。
車を使えば5分で行ける距離に大きなスーパーがあると、私たちはそれを便利と呼ぶ。夜でも休日でも買い物が出来て、車や電車や飛行機で簡単に遠くの世界を見れて、エスカレータやエレベーターで高い所に登れる。そうしたことも、私たちは便利だと言う。
けれども、遠くまで通勤しなければならなかったり、何処にいても仕事に追われたり、休日でも働かなければならなかったり、便利な生活を維持するために長時間労働を強いられたりしている。
私たちはそれでも便利だと思っているけれど、本当にそうだろうか。私たちに便利が必要なのは、私たち自身が生きる術を忘れてしまったからでもある。もはや便利は特殊なことでも何でも無く、必要不可欠になっている。私たちは便利でなければ生きていけなくなってしまった。
不便で不快で不潔な状況を通じて学ぶ場は都会では殆どなくなってしまった。かつてキャンプと言えば限られた状況下で仲間と共に何とかして過ごすことを意味していたが、今ではお洒落で快適な独りの時間を愉しむものにまでなってしまった。
昔は過酷で理不尽で不条理がまかり通る様な事が多かった学校生活も今ではクリーンで人間的になって環境だけはかなり快適になった。
かつての悪環境が良かったなどと言うつもりは毛頭ない。しかし環境が良くなるほどに人は弱体化し無力化していく。便利で快適になった分だけ人一人の価値は薄まる。そう思いたくない私たちは、一人ひとりの大切さをことさらに言わなければならなくなった。命の大切さを唱える意味は、生命としての人類の価値を過大に再認識することにある。承認欲求などという言葉が世間を賑わすのは個人の希薄化の反動だ。
人類の進化の陰で、ともすれば私たち一人ひとりは出来ないことが多くなって希薄になっていっている。それがいつか人類の希薄化に繋がらなければ良いが。
おわり