銀行通帳
通帳が有料になる銀行が増えている。
ズボラな私はもともと通帳記入をほとんどしないので通帳が無くても良い派だ。なくても良くなるのは大歓迎なのだ。
通帳のコストには、通帳という紙の冊子を作るための費用だけではなく、通帳記入が出来るようにする仕組みを作るための費用や機械の購入費および維持管理費などが全て含まれる。極端な話通帳どころか銀行の店舗にATMがいらなくなれば、莫大な節約になるだろう。
こうして実はかなりのコストが掛かっていると言われる通帳の発行がこれまで無料、つまりサービスとして提供されていたのは、それに有り余るプラスがあったからと言えるだろう。そのプラスは利用者側にもあって、ATMに吸い込まれた現金が間違いなくそこにあると錯覚させてくれるのに役立っていた。つまり、あなたのお金というバーチャルの代物を、記帳することで見えるようにしてくれていたのだ。そんな重要なものがタダで使えていたのだから、改めて考えれば不思議な話だ。
しかし銀行だって企業である以上、無償で提供するものなど本来はない。
無料に見えるものは、実は薄く広く皆で負担していると思っておくのが正しいだろう。
薄く広く皆で負担しているものはいろいろある。
家の目の前まで来ている道路、電線、電話線、ガス管、水道管、下水管、公園、警察、消防といった公共財だ。これらの中には使用料を徴収されているものもあるし、民営化しているものもある。従って、ちゃんと払っていると思うかもしれないが、例えば電柱を1本立てるには数十万円掛かるが、あなた家の前の道路に建つ電柱を立てた際にその費用をあなた自身が払っただろうか。敷地内であれば払った筈だが、一般的には費用負担していないだろう。つまり月々払っている料金には、あなたが直接使用した分以外の費用が含まれているということだ。
公共の道路や消防などのサービスは、もちろん税金などを元にした行政の負担で賄われている。
道路を歩いても、救急車を読んでも使用料を請求されないのは、そういうことだ。
一見ただで使えているサービスも、どこかであなたが負担しているから利用出来ているだけ。あなたが負担していないとすれば、誰かが負担してくれているからということだ。
国道は確かに国が作ったものだが、行政は所定の手続きをして業者を選定するなどして、造るための仕事をしただけであって、実際には国民みんなで作ったみんなのものだ。
社会が複雑化したり、街が複雑化していくと、いろいろと見えにくくなるものがある。そのうちのひとつが、みんなで社会をつくっているという共助共同の感覚だろう。
だれかがやってくれる領域が増えると、自分はお金を差し出しさえすればサービスやモノの提供が受けられる「便利な」世の中になるわけだが、その便利さは社会と分離した何かによって達成されるのではなく、もしかすると今すれ違ったあの人のお陰ということもあるということだ。
実はみんなで助け合うことで成り立っているのに、それを忘れられる社会では、個人が孤立して対立してしまうようなことが当たり前に起きてしまう。
個人との関わりが希薄な都市では、本当はバーチャルな社会であるのにも関わらず、そのバーチャルがホンモノだと錯覚してしまいがちだ。
リアルな実体と分離されて生きることに慣れすぎて、何でもお金を払えば手に入ると錯覚しやすい社会に生きているということを改めて思い返してみたい。
おわり