見出し画像

依存症から脱却するということ

 タバコを吸わなくなって2年が過ぎた。
 今から思えば自分はある種の依存症だったと自覚する。
 ギャンブルや薬物はやったことが無いので本物の依存症がどういうものか分からない。しかし、きっとそういった依存症も同じような感覚なのではないかと想像する。いわゆるニコチンが切れた時のあの焦燥感・空虚感は他に例えようが無いと思える。考えてみればタバコだって薬物依存の一種と考えられなくもない。

 タバコを吸わなくなった直後の猛烈な焦燥感を思えば、いわゆる依存症が気持ちの問題で何とかなるとかいうことではないことが良く分かる。
 禁煙の難しさは、理性や心がけではどうしようもならないくらいに突き動かされる脳の欲求と対峙することにある。その欲求を満たす方法は知っているし容易に手に入れられるのに、それを抑えて我慢することの不合理と戦わなければならない。
 タバコを吸わない人に取っては、何をか言わんやという心境だろうが、禁煙を目指す人にとっては心の底から湧き上がる強迫観念との格闘は、七転八倒の苦しみなのだ。

 身近な感覚でこういった依存症的なものが他にあるか考えてみたが、なかなか思い当たらない。
 強いて言えば買い物や酒による依存が似ているかもしれない。
 例えばあるバッグが欲しくなった時に感じる感じ。そのバッグのことを考えるほどに欲しい気持ちが増していく気持ち。しかし手に入れると欲求が嘘のように引いていく。でも、しばらくするとまた欲しい財布のことが気になる。こんな経験があるのではないか。

 
 依存が脳内で放出される快楽物質や体外から取り入れられる物質によって引き起こされることは事実だが、状況によって強化される面があると感じている。
 例えばタバコの場合、食後の一服、コーヒーと一服、アルコールと一服、仲間との歓談で一服といったように、何らかのシチュエーションと複合することによって、より快楽に繋がり易いように思う。
 さらには、その快楽を求めて食後に吸いたくなる ⇒ 吸う ⇒ 満足するといった過程で吸った時の快楽の記憶が強化されるように感じる。
 ここで重要なのは、快楽そのものが強化されるのではないということだ。習慣によって強化されるのはあくまでも快楽の記憶だ。「あー、タバコを吸いたい」と思う時の脳は、タバコを吸ってぷかーっと紫煙を吐き出した時の何とも言えない心地よさを思い出してそれを欲求する。
 実のところタバコの煙はうまくはない。煙いだけだし苦いだけだ。旨さを感じているのは口や舌や気道ではなく、タバコに含まれる化学物質を与えられた脳だ。

 依存症になるような現象が、脳が求める快楽の習慣と捉えると、実は身の回りに沢山ありそうだ。でもそれが生きることに必要とされているものであれば依存症とは言わない。
 例えば食事。
 食べたくなる時の焦燥感は他の依存症と似ている感覚かもしれないが、誰もそれを問題視はしない。
 これだけメタボが騒がれる時代を生きる人間は食に対して依存的であることは否めないだろう。それでも余程酷い場合以外は依存症とは言われない。
 例えばランニング。
 健康増進とメタボ解消に初めたランニングに夢中になって、走らないと気持ち悪いとなったとしても、誰も心配はしない。いつも運動して偉いねなんて言われて悦に入ることだってあるだろう。
 例えばゲーム。
 画面の中で達成される充実感はリアルな世界からの逃避なのかもしれないが、日常生活に支障を来すようなことが無い限り余暇や娯楽として許容される。お陰でゲーム会社は儲かっている。

 考えてみれば、人は小さな依存の積み重ねで生きているのかもしれない。
 人に認められ、褒められることだって、友人を頼り頼られることだって、それを良いことと脳が感じるように遺伝子でプログラムされている。それが生存戦略上適していたからだ。
 程度問題と言ってしまえばそれまでだが、禁煙の時のあのような焦燥感は異常領域の一歩手前だったなと思えば、程度を制御することは難しいのだろうとも想像がつく。

 タバコを吸わなくなってこの2年間で、夕方になると無意識のうちに缶ビールに手が伸びるようになったことに最近気づいた。既に依存になりつつある気がしてこの習慣を辞めたいと思い始めているのだが、なかなか止められないのが今の私の課題だ。

おわり

 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?