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誇張
話というものは大きくなるものだ。人づてになればなおさらだ。意図せずとも、印象に残った部分が取り上げられるから、それだけで膨らみがちだし、話を面白くしようという話者の心意気がデフォルメに誘う。所以、話は誇張されることになる。
一度大きくなった話は萎むことはない。大きくなりすぎると、もはや元の話は何処へやら、全く違った内容になることすらある。こうなるともはや嘘ですらある。
人から聞く話の大半は噂話だから、誇張か嘘が紛れていると思った方が良いのだが、人というものは噂話が大好物で直ぐに呑み込んでしまう。悪いことに、なるほどそんな事があったのかと誰かに語りたくなるのも噂話。
噂話は自分の話ではないから内容は面白ければ何でも良い。それでいて話す側も聞く側もどうでも良い話が都合が良い。安全安心な立ち位置から語れるからこそ誇張もし易い。
しかし、噂される方はたまったものではない。人の話を聞いているうちに、何処かで聞いたことがあると思っていたら自分のことだった時など、どこの誰が言い出して、どこをどうすればこんなにも誇張された話になるのかと卒倒しそうになる。
火のないところに煙は立たないなどと言われもするが、噂話を正当化するための技巧的な表現に過ぎない。火の気すら無い所から大火事が起こるものだ。それでも、それが人間の性だから仕方ない。誇張は世界共通だ。
話が大きくする誇張もあれば、小さくする誇張もある。敵を少ない人数で倒したと誇るときなどがそうだ。大きいか小さいかに関わらず、誇張はものごとを大袈裟に表現することで効果を発揮する。
多くのことが誇張されていると考えると、私たちが捉えている世界というのは現実よりもかなり大袈裟になっているということになる。本当は、世界は見た目よりも地味でつまらないものなのだ。思っていたのと違ったことが起こるのが普通であって、期待したようなことが起こらないのが当たり前なのだ。世界は普段感じている以上に汚くドロドロしたものなのである。
裏の世界は違うと言われる。例えば政治の世界は表向きは良さげな人でも裏では色々と汚いことに手を染めているという様な言い方だ。こうしたことも、誇張されているが故に起こると言っても良い。クリーンなものなど無いのだ。
日本を含めた先進国と呼ばれる国々は、クリーンではないものをクリーンなように見せかけるために時間と金を費やすことが正当化された社会だ。
人間は非常に多くの細菌やウイルスにまみれた汚い存在なのに、小綺麗に着飾って除菌に熱心になることで綺麗になったと錯覚している。考えていることや、やっていることの汚さとは対照的に見た目は汚くない。地球環境に配慮した社会を標榜しながら、間接的に環境を破壊する高エネルギー消費社会だ。自分の家で出るゴミを隣家の庭に放り込んでいるのと同じなのに、隣の家が庭を汚いままにしていることを悪く言ったりする。
日本が安全で安心で世界一に並ぶほどクリーンな社会であることの恩恵を受けておいて何だが、それが誇張された見せかけであるとしたらどうだろうか。
バブルが崩壊した様に、真実からの乖離が深まればいつかバランスが崩れて化けの皮が剥がれる時が来るかも知れない。
そもそも人間社会は自然界を大きく誇張したものなのだ。
おわり