テレビのおわり
昔はゴールデンタイムともなるとテレビに齧りついていたものだが、今ではニュース番組を多少見るくらいで、全くと言って良いくらいテレビを見なくなった。番組表を眺めても大して面白そうなものはやっていない。無条件に流れて来る当たり障りのない何かに時間を費やすのが勿体ないとすら感じる。
放送している側には、規制が厳しくて自由に出来ないと思っている人がいるかも知れないが、見る側は別に過激で差別的な番組を望んでいる訳では無い。スポンサーに忖度して万人受けすることを大命題とされた幕の内弁当には魅力を感じないというだけだ。
一部のマニアにだけウケる様な番組にニーズが無い訳では無いだろう。制作費に見合ったスポンサーが付かないだけだ。要するに、制作にカネが掛かりすぎるということでもある。
確かにテレビ局やその関連制作会社が手掛ける映像はクオリティが高い。高価なプロ用機材を使って撮影・編集されることもあるが、訓練を受けた者たちが蓄えているノウハウや技術は生半可なものではない。
しかし番組の良し悪しは、映像制作技術もさることながらコンテンツに宿ることは誰も否定出来ないだろう。何気ない日常を非日常として切り取る撮影技術をもってしても、それを通じて何を見せるかがハッキリしていないと面白くはならない。しかし、目的が明確になればなるほど万人受けと言うよりもマニアック寄りになって行く。誰しもが面白いと思えるネタはリアルな人間ドラマが浮かび上がるドキュメンタリーだろうが、良いカットを集めるためには時間と根気がいる。歩留まりがかなり悪い。つまり、儲からないのだ。
儲かるかどうかが分かれ目だ。
だって資本主義経済だもの、と言われそうだが、儲かるかどうかだけを基準にしたら、ものづくりだけではなく全ての仕事がつまらないものになる。こんな番組誰が見るんだよ下らねえなあとプロデューサーが呟きつつも、しょうがねえからやってみるかと苦笑いしながら言わせるようなものの中にこそ当たりが眠っているのだ(万に一つだが)。無駄の中にこそ正解があるのであって、最初から狙った正解など正解ではないのだ。
目の前の結果を求めれば、それは蜃気楼の様に逃げて行く。喉から手が出るほど水を欲しているからこそ蜃気楼に追いすがる。その動機は間違っていない。しかし、水はそんなに簡単には手に入らないのだ。蜃気楼を追いかけている限りは。
きっとみんな気づき始めているのだろう。テレビの中に答えはないのだということを。箱の中に見えるその先には、現実に似て現実とは違う作り物の世界があるだけだ。見せたいものを見せられているだけの娯楽には価値が無くなってしまった。それでも多くの人が大画面テレビを購入して、不自然な距離で映像の中に埋もれるようにして見ているものは、果たして何なのだろうか。
おわり