エスカレーターの乗り方についての車内アナウンス
電車に乗って動き出すやいなや、エスカレーターの乗り方のアナウンスが流れた。しかも4ヵ国語で。
これ、必要?
私は日本の某哲学者の影響を受けて、ただでさえ車内アナウンスが煩いと感じている口なのだ。それなのに電車の中でエスカレーターの説明とは、聞いて呆れた。
これからはインバウンド復活だよね。外国人の方々にも日本流の安全意識に則ったエスカレーターの乗り方を教えてあげなきゃね。外国語のアナウンスだけだと日本人の乗客が何のアナウンスが分からず不安になるから日本語のアナウンスも入れておこうね。そんな感じだろうか。
だとしてもよ、車内で流すのはそれじゃないだろ。電車が止まる前ならまだ分かるが、動き始めじゃないだろ。だいたい、そんなアナウンスを聞いた外国人は「日本人はエスカレーターの乗り方も知らないのか」と唖然とするだろう。
やれ忘れ物するなとか、車内で通話するなとか、雨で滑りやすいだとか、次の駅は何だとか、日本人は機械のアナウンスが無いと分からないくらい阿呆だったんだと驚くだろう。
日本人なら分かっているが、こうしたアナウンスがあるのは日本人がそれほどまでに馬鹿だからではない。だから外国人に変な誤解を与えてはならない。
公共の場でのアナウンスは多くの人が共有すべき情報を広く知らしめるためにある。それを聞いた人々は、例えば搭乗ゲートに集まったり、目的の教室がある建物まで誘導されたりする。つまり普段とは違う行動をアナウンスが助けてくれる。
車内のアナウンスも、旅行者が大半なのであれは有効だが、毎日の通勤電車ではあまり意味がない。
こう言うと「ほんの少しの旅行者に対しても慮るのが日本の良いところじゃないか」と言う人がいる。
アナウンスがあるのは、みんなの中に「みんな」を植え付けるためだ。みんなが同じ放送を聞く事でみんなが何かを共有する。そこに日本人の「みんな」の意識が現れる。だから同じアナウンスでも外国語だと日本人はやや違和感を覚えつつも外国人とも「みんな」を共有出来る気がしてくる。もちろん無意識下でだ。
アナウンスを煩いと思う私の中では、「みんな」に纏められてたまるか、という意志が働いているのだが、どうやらみんなは「みんな」でいることに安心感を抱いているらしい。
参院選の結果、改憲派勢力が3分の2以上を占めることになったらしい。国会レベルで強大な「みんな」が形成されたということでもあり、私のような捻くれ者が生き辛い社会にならないことを切に願うばかりだ。
おわり