生の交流から生まれる交歓
個人的な話だが、ダウンロードになって以降、イヤホンやヘッドホンで聴くことが多くなった。そして、サブスクになってからはその傾向が加速した。
もちろん、音楽の話だ。
録音されたものを聴くという形式の音楽はパーソナルなものだから、当たり前により個人的な形態になっていく。
個人的な形態にならざるを得ない理由として、著作権で守られているものを無闇に人と共有してはいけないというのが建前の話としてある。元来はみんなで楽しむのが音楽だった筈なので、商業として成り立たせんがためとはいえ、文化としては劣化しているということか。
演奏する人と聴く人というように、あっちとこっちを分けるのも同様に、商業ベースに載せるためということだろう。その道に長けた人の素晴らしい技を観るのも芸術活動の一環であるし、長けた人を育成するにも芸術がお金になる仕組みは必須だ。だから商業的である事を否定する気は無い。
気にしたいのは、個人の触れる音楽がプライベートに偏りすぎることだ。外を歩いていても、電車の中でも、イヤホンを付けさえすれば好きな音楽の世界に浸れる。それは素晴らしい事だ。素晴らしい事ではあるが、そのような個人的な体験は音楽のある一面を切り取ったに過ぎない。
ライブやコンサートにしてもそうだ。
これらに共通するのは、受け身ということだ。だから、それらを寄せ集めても音楽の全体像は見えない。
芸術を何か特定の定義に縛るのはおかしいが、受け身であることだけでは完結しないものである筈だ。
統計を取ったわけではないので個人的な印象に過ぎないけれども、芸術が余りにも受け身に偏っている気がしている。その理由はやはり金になるかどうかという経済的な側面がどうしても重視されることで、与える側の数よりも受け手の数が圧倒的に多くなければ成り立たないからだ。
ここで問題なのは、商業ベースに載るいわゆるプロの行うものこそが芸術であって、素人のそれは取るに足らない価値のないものと思いがちになってしまう事だ。あるいは、私は下手だから人に披露するようなものではありませんというようなことになってしまう事だ。
プロの価値はもちろん認めつつも、万人が自らの表現として楽しんで芸術に関わること、もっと言えば日常の中に芸術が共存していること、そして他人の日常的芸術表現を互いに受け入れつつ交歓することが人をより豊かにするはずだ。
そのことは、プロの価値をより高めることにも通ずる。
カラオケが日常に浸透したことによって、日本人は本当に歌の上手い人が増えたと思う。ダンスをパフォーマンスの中心に取り入れたアーティストが増えたことで、ダンスの上手い人も増えた。
しかし残念なのは、技術面ばかりを追求しがちになってしまう点と、そういった表現の場が限られていて、日常性にまでは昇華していない事だ。
何かのイベントのような場面では歌ったり踊ったりすることが出来るし受け入れられるが、日常の中で同じことをすると距離をおかれるし、おきたくなる。
ストリートパフォーマーが育たないのには、こうした空気の問題もあるように感じる。隣を歩いている人がステップを踏みはじめたら奇異に感じるだろう。広場でギターを持って歌いだしても、通り過ぎるか遠巻きに眺めるだけたろう。周囲の人も一緒になって踊りだしたり、歌いだしたりするような空気にはなかなかならない。
そうした状況を「パフォーマンスする人」と「見る人」という構図に当てはめて理解しようとしてしまうからだ。
踊りだしたこの人はなにか嬉しいことがあったのかなとか、歌いだしたのは失恋でもしたのかなといったように、気持ちの動きをきっかけに共感し、気持ちを共有するためにリズムを取るというような感情ドリブンな交流の一つの手段として芸術が根付いている光景はあまり目にしない。
ピアノの発表会もそうだが、多くの人の前で演奏することが技術の披露の場としてしか機能していない場面が多い。言葉に表せない気持ちや感情の交歓の場として機能している自然な場面があまりない。
じゃあ、お前はどうなんだと言われると、それこそ恥ずかしくてとても披露するほどの腕前では御座いませんという気持ちが先に立ってしまって楽しむどころではなくなるので、まだまだとやかく言うほどのことではない。
とはいえ芸術がもっと身近になるとみんなの人生が豊かになることには違いないという確信はあるのである。
おわり
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