見出し画像

あらかた片付いた

 コンピューターが普及して、AIが実用レベルになろうとしているのは、きっと人間がやるべきことはあらかた片付いたからなのかも知れない。
  
 便利な道具が出来て暇になるかと思ったら案外忙しくなる。現代の人類がやって来たことはあらかたそんなところだ。洗濯機が出来る前、洗濯というのは家事の中でも大変な仕事の一つだった。1日のうちの何時間も手を動かし続けてやっと出来ることだった。それを機械がやってくれたらどんなに楽になるか。普及が始まった頃の人々は、洗濯機を買えばきっと暇になると思っていただろう。しかしそんな事は無かった事を私たちは知っている。
 電話が出来て、手紙を出さなくても連絡が出来るようになり、ファクシミリが出来て、書類を持って行かなくても直ぐに送れるようになった。電子メールなら、紙すら要らなくなって、送信スピードも格段に速くなった。文明の利器によって、同じ事をやるのに少ない労力と時間で出来るようになったのだから暇を持て余すかと思いきや、同じ時間でやらなければならない事が増え続けて、暇どころではなくなってしまった。

 しかし、そうした便利な機器に囲まれた今となっては、もはやそれらを手放すことは考えられない。私たちが手放す手放さないと言うよりも、手放せなくなっている。機器に従属した状態とも言える。つまり、私たち人間が持てる能力の限界はとっくに超えていて、それでもまだ生産性向上などと言ってさらなる成長を強いられる社会の仕組みになっている。

 民主主義は確かに自由を与えてくれたかも知れないが、技術の発達は人間に出来ることの限界を突き付け、私たちを置いてけぼりにして行こうとしている。
 交通の便が良い事が誰にとっても良いことだという価値観を疑う人は少ないだろう。しかし1日のうち数時間を職場への移動に費やすのが個人にとって良いことなのだろうか。会社や機械に盲目的に隷属して多くの時間を捧げることが社会を幸せにすることなのだろうか。

 月曜日から金曜日までは朝から晩まで働き、その引き換えに土日の自由時間と僅かばかりの糧が支給される。その糧も税金と社会保障費、生活必需品に消えていく。私たちは一体何をやっているのだろうか。
 決まり切った生活パターンを営むのは何も考えなくて良いから楽な面が確かにある。しかし機械のために機械の様に働く生活は人間から心を奪う。ありきたりの価値観の文明生活を営むことは人間に型にはまった「心」を宿す。

 人生最期の時に、住み慣れた家で家族の笑顔とともに過ごし、幸せな気持ちのまま旅立つ人がどれくらいいるだろうか。生まれてから死ぬまで溢れるほどの家族の愛情の中で育ち生きる人がどれだけいるだろうか。
 この現実が経済合理性を突き詰めようとして出来た結果なのだとしたら、失われたものと引き換えに手に入れたものはそれだけの価値があったのだろうか。
 もしAIが人間に代われる能力を持つのなら、人は今度こそゆとりをもって、人と向き合い触れ合う時間を多く持てるようになりたいものだ。

おわり

いいなと思ったら応援しよう!