人間が出来るアウトプット
人が自分の意志や思いを表そうとする時に出来る事はなんだろうかと考えた。
そもそも自分に意思なるものが本当にあるのかどうかという問題もあるが、一応意思があるとした場合に何が出来るのか。
この問題を身体視点にぐっと引き寄せて考えてみると、自分の意志を表明するために出来るのは筋肉を動かすことだ。何をするにしても筋肉を動かさなければ始まらない。見るのも喋るのも、まずは筋肉を動かす事になる。
聞くだけなら筋肉を使わなくて済むけれど聞くだけで意思を表現することは出来ない。インプットは筋肉を使わなくても出来ることがあるが、アウトプットは筋肉が頼りということだ。
だから仮に誰かに拉致されて筋弛緩剤を打たれ筋肉を動かせなくなったらば、生きているのか死んでいるのか見た目では分からなくなる。もっとも、心臓や呼吸を司る筋肉まで弛緩してしまったら死んでしまうから、死なないままの状態で完全に筋肉を動かせなくすることは出来ないだろう。
いろいろ考えたが筋肉を動かす以外にアウトプットする方法はどうも無さそうだ。
人間のアウトプットが筋肉頼みというのは意外だった。考えてみればその通り、当たり前に思えてくるが、それ程までに筋肉が大切なものだと分かっていなかった気がする。
筋肉には随意筋と不随意筋があるというのは聞いたことがある。随意筋とは運動神経系を通じ自分の意志でコントロール出来る骨格筋。不随意筋は自律神経でコントロールされる心臓や呼吸、内蔵の動きを司る筋肉。
意志を表すという前提で言えば随意筋、すなわち骨格筋を如何に意志のままにコントロール出来るかに掛かってくるということだ。
しかし良く考えてみると、骨格筋を動かすにしても大して意識せずに行っていることが多い。例えば蚊に刺された額を右手の指で掻く時、私はどの筋肉をどうやって動かすかなど全く意識していない。笑うときに口角をこうやって上げて目尻を下げてなんて全く意識していない。何かその辺は自動化されているように思う。せっかく意志でコントロール出来るはずの骨格筋を無意識に動かしているなんて実に勿体無い話だ。いや、勿体無いのではなくいちいち全てを考えながら動かしていたら非効率極まりないし、本当に大切なことをすることが出来なくなってしまいそうだ。だからきっと、ある動きの纏まりをひとつの動作として無意識的に動かす事が出来るようになっている。
そこで、最近意識して筋肉を動かしたことがあるか思い返してみたが、そんなことは何一つとして無いことに気がついた。肩が凝ったなぁと意識して伸びをしたりすることはあっても、筋肉の繊維を動かすことまでは意識していない。無意識にやっている癖みたいな動作もたくさんありそうだ。
私は、私の知らないうちに様々な身体の動きを勝手にやっていることになる。きっとこれは歳のせいだろう。好きな人に振り向いてもらおうなんていう機会も無く、全てが惰性になっているということだ。こんなことだから夫婦喧嘩も起きるのだ。
もっと意識して生きよう。まずは表情筋を動かして、喉の筋肉を動かす時間を意識的に作ろう。
つまり、夫婦の会話の時間を増やそうということだ。
おわり