⑦ 日常生活における論証1
しかしながら、日常生活において生じる「考えや感情」は単純ものではありません。私たちのの日常生活は様々な様相が絡み合って構成されていることになります。⑥で示した夕焼けの例のように、1つの明確な「データ」から1つの明確な「理由づけ」によって「主張」が導かれるようなことは稀なのです。
以下、日常生活における論証の特色について考えていきます
数学などの自然科学分野の論証とは、必然的な「データ」が必然的な「理由づけ」によって必然的な「主張」に至るようなものです。その代表的なものとしては以下のような数学分野の合同証明があります。
二つの三角形は二辺とその辺を挟む角が等しい(データ)
↓ ← 二辺と挟む角が等しい三角形は合同である(理由づけ)
二つの三角形は合同である(主張)
この論証の「理由づけ」は、公理と言われる証明の必要のない自明の真とされたものです。だから、「データ」を具体的に目の前に出されたら、必然的にこの「主張」に結びついてしまうのです。
これに対して日常生活における論証はどのような特色があるのでしょうか。香西氏は「数学のような厳密な自然科学の議論は、必然的な(確実な)前提から出発して、必然的な結論に到達するが、人文・社会現象を扱う議論においては、多くの場合、蓋然的な(そうらしい)前提から出発して、結論においても蓋然的確実性しかもたない」(『反論の技術』による)と論じています。
香西氏の言う「人文・社会現象を扱う議論」とは日常生活における論証そのものであると言えます。つまり、日常生活における論証においては、「理由づけ」は公理のように自明の真として存在するものではないし、「データ」においても具体的に目の前に提示できるようなものが多いということです。つまり、どちらの前提も蓋然的(そうらしい=確実にそうだと言えないこと)であることが多いので、当然のこととして「主張」の説得力も低くなるということです。
だから、日常生活における論証においては、いかに蓋然的な「理由づけ」を必然的なものに近づけていくか、いかに蓋然的な「データ」を必然的なものに近づけていくかということ、換言すれば、少しでも「主張」の必然性を高めていこうとするその方法を模索することが重要になってくるのです。