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自分の発言に責任を持つべきか
「これ誰がやる〜?」ってなった時「俺がやるよ」って言いにくいのは、出来なかった時の責任をとらなきゃいけないからだろう。
「明日皆でどこ行く??」ってなった時、「サッカーとかどう?」って提案しにくいのは、雨が降った時に責任取れないからだろう。
皆自分の発言には責任が伴うと思っているから縮こまっている。これは誰もが損している状態だ。
「これ誰がやる〜?」「シーン‥」
「明日皆でどこ行く?」「シーン‥」
となったら、計画倒れ待ったなし。損していることは明白だ。
だが待て、本当はこんなことになる必要はない。なぜなら、同意(コンセンサス)したときに責任はみんなに分散されているからだ。
「俺がやるよ!」「オッケー!」
の時、「オッケー!」がコンセンサスとなる。これで、責任が分散されているはずだ。
どういうことかというと、「俺がやるということに、成功するか失敗するかを確認せず無条件にオッケーを出している」ので、失敗しても咎められるいわれはない。
失敗して責められても「テヘペロ」で良いのだ。なぜならそういう契約なのだから。
さらに例を出すと、
病名はわからないがなぜか熱があり危篤の患者がいて、医者達が治療方針で議論しているとする。「抗生物質だ!」「いや、ステロイドだ!」と意見を言い合っている。この時、間違えて違う方を処方すると病状が悪化し、最悪死に至る。
こんなとき、発言に責任を持たなきゃいけなかったら、絶対誰も何も言わない。
「抗生物‥いや💦なんでもない💦」
「ステロイ‥いやいや、聞かなかったことにして💦」
ってなってる間に患者が死ぬのだ。なので、コンセンサスを持って責任を分散するのだ。
「ステロイドでいくよ!いいね!?」「おう!」
この「おう!」で責任は分散された。
これで患者が死んでも責任は追わずに済むし、だれもが尻込みすることなく患者の命が繋がったのだ。
このように、責任とは皆の足に付くカセという側面を持つ。
日本が責任社会という形態をとっているのでまるで責任を取ることが絶対みたいな雰囲気にのまれがちだが、ちゃんと責任社会にもデメリットはある。
明日からもう少し無責任になろう。きっと誰かの役に立てるはずだ。
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