「多様性を大事に」と言っていいか
昨今いろいろな場面で「多様性を大事に」と言われてやまない。「ダイバーシティ(多様性)」とは、さまざまな社会、民族的背景、異なる性別、性的指向など、それぞれの人々が持つ多種多様なバックグラウンドのこと。また、個人の違いを認め合い、尊重し合うことだそう。
ようは、「肌は白くないとダメ」とか「紅白歌合戦見るべき」とか「男と男は結婚しちゃダメ」とか言っちゃダメってことだ。いろんな人がいて、尊重しようね~ってことである。
大いに賛成だ。多様性を認めない社会は、差別や争いを生む。それに、自分以外の存在に寛容な世の中はみんなの笑顔を生むだろう。そんな世界は楽しみだ。
よし、多様性についてどんどん訴求したくなってきたので、多様性を極めたらどうなるか思考実験をしてみよう。完璧に多様性を認めた社会とはどういう社会なのか。
多様性を認める社会というのは誰かに対して「こうじゃなきゃいけない!」って言うのを禁止するってことでよいと思う。自分以外を尊重するということは「人それぞれ」でなくてはならない。
「学校は行かなくてはいけない!」というのも言ってはいけない。
「働かなくてはいけない!」というのも言ってはいけない。
うん、なんか今っぽいし、学校や会社に行けない人が悪いとは思わない。
「人を殺してはいけない!」というのも言ってはいけない。
うーん、まあそうかもしれない、なんてったって多様性は大事なんだから、犯罪者も尊重しなくてはいけないだろう。
「多様性を認めなきゃいけない!」というのも言ってはいけない。
あれ?
そうか、多様性を認めるということは「多様性を認めなきゃいけない!」というのも言ってはいけないことになる。難しくなってきた。
「多様性を認めなきゃいけない!と言ってはいけない」ということは、「多様性を認めなくてもよい」ということになる。なので、多様性のある社会ではない。
つまりどういうことかというと、
多様性を追い求めると、限りなく多様性のある社会に近づけはするが、最後の最後、「多様性を認めなきゃいけない」という一様性が出てきて、真に多様性を認めることはできないということだ。
難しいので会話にしよう。
ということである。