「恥ずかしい」と思うべきか
法を破ったときに発生するのが罰で、徳を破ったときに発生するのが恥だ。
僕はいろいろ恥ずかしいことがあった。
鼻毛が出てるのも恥ずかしいし、
挨拶をしなかったことを誰かに指摘されても恥ずかしかったし、
誰かの評価をいつも気にしていた。
恥ずかしいという思いはなるべくしたくない。
だけどどうしてもそうなってしまうことはある。
この「恥ずかしい」という機能は何かというと、
徳治におけるペナルティといえる。
法で治めるのが法治国家で、徳で治めるのが徳治国家とする。
法を破ったときに発生するのが罰で、徳を破ったときに発生するのが恥だ。
日本は法治と徳治のハイブリッドでお届けしているはずだ。
守らないとインパクトのあるエラーは法律化し、そこまでじゃないものは学校で教えたり家庭内で教わることによってエラーを抑止する。
例えば、殺人とか詐欺とか、民事で言えば結婚とか、そういうのは法治によって秩序をもたらしているが、そこまでではないやつは徳治に寄せている。
「朝は"おはようございます"といおう」とか、「鼻毛出てるわよ!切りなさい!」とかは、「徳治」でお届けしている。
結構なルールを徳治側に置いていると思う。
朝は"おはようございます"という謎の呪文を唱え合う儀式を強制するわけだから。
恥ずかしいという思いをしなくてすむようになれば、「徳治」によって個人の自由を制限されることがなくなるのである。
じゃあ恥ずかしいと思わなければいいと思うが、無理だ。
義務教育と両親からの教育という洗脳で、恥ずかしいと思ってしまうように人格形成が済んでしまっている。
ただ、僕はどんな困難な課題にも挑戦する。
恥ずかしさを感じない訓練をしてみた。
まず、おならをブーブーすることだ。
まずは家族の前で。さらには会社で、と、徐々にスコープを広げていって、
誰の前でもおならができるようにするという訓練だ。
どこまでできるようになったかというと、会社の社員さん全員の前でおならができるまでになった。(ハラスメントまったなしだ。)
まだ電車の中でおナラができるまでには至っていない。まだまだ精進が必要だ。
社会の窓も開けっぱなしにできるようになったし、
鼻毛もボーボーのままいれるようにまでなった。
(いつかハラスメントで訴えられる気がする)
恥ずかしいという呪縛から少しずつ解き放たれ、僕は自由を取り戻している。
皆さんも自由の幅を少しでも広げたいのであれば、オナラから始めてみるとと良い。