03温泉と父と
こちらは『褐色の蛇~国家認定緩和医・望月亜桜の日常』の「プレ公開版」です。定期購読マガジン『コトバとコミュニティの実験場』メンバー限定となっています。正式版は2021年春頃に無料公開予定です。
「気持ちいいですねー、亜桜先生―」
看護師・赤垣凪咲は「あーっ」と言いながら褐色の湯に浸かり、先に入っていた亜桜のところにすーっと寄ってきた。亜桜はもう湯舟の縁で半分溶けかかっている。
「あー……朝風呂はいいねえー。ねえ凪さん、お酒もってきてよ」
「ここにはお酒なんかないですよー」
「えー。加賀姫山廃……澤翁生酛……」
亜桜がぶつぶつと呟くと、赤垣がきょとんとした顔をする。
「何ですか? お経ですか」
「凪さん、友達なんだったら私が好きなお酒の名前くらい覚えてほしいわ」
「えへへー。でもダメですよ、先生。これから息子さん迎えに行くんでしょ」
「そうだった……。晨のお迎えがあるのか」
亜桜の息子――晨は、普段は祖母の貴子が幼稚園に送り迎えしてくれているのだが、今日は当直明けで10時退勤のため、亜桜が迎えに行くことになっていた。昼前に帰ればいいな、と思っていたところで、同じく夜勤明けの赤垣に温泉に誘われたのだった。こういうとき、病院の隣に温泉があるというのはよい。
「パパがお迎えに行くことあるんですか」
「うんー、夫も仕事があるから難しいかな。まあ……、仮に仕事なくても、夫はやってくれないと思うけどね。前に話したでしょ。今どきだけど、夫は家のこと何もしないからさ。いいのよ、あんな人」
赤垣は無言になり、さりげなく話題を変える。
「息子さん、おいくつになったんでしたっけ?」
「今年、4歳になったわ。だいぶ手がかからなくて楽になってきたけど、まだ甘えん坊でさ」
「そりゃあ、そうですよー。まだまだママに甘えたいですよね。特に、こんなキレイなママさんだったらなおさら」
赤垣はそう言って、亜桜の顔をまじまじと見つめてくる。
「すっぴんなんだから、あんまり見ないでよ」
「えーでも亜桜先生化粧しなくてもそんなに変わらないですし。肌もキレイ」
「そう? あー、ありがとう……」
以前赤垣から、自分は男性も女性もパートナーにもったことがある、と打ち明けられたことがある。そしていまは女性のパートナーがいるということも。そのうえで、赤垣が亜桜に対して仕事上の尊敬という思いを超えた好意を抱いていることも、亜桜は気づいていた。と言うより、赤垣自身がそれを隠そうともしない。亜桜には夫がいる、そして赤垣にもパートナーがいる。その矩を超えてくるような娘ではない、ということも亜桜にはわかっていた。
「そういえば言いそびれていましたけど、国家認定緩和医の合格、おめでとうございまーす」
赤垣は、手をあげて乾杯をするポーズをとる。
「ありがとうございますー」
亜桜もグラスを持つ仕草で、赤垣に合わせる。
「安楽死の仕事、けっこう来ますか?」
「そうだね、最低診療期間があるから、まだ実際に安楽死を実行できる人はいないけど、いずれ希望するって言って紹介されてきた方が、外来に数人いる」
最低診療期間とは、「国家認定緩和医は、患者対し『安楽死の希望を確認してから最低3か月の対面での診療期間』がなければ、安楽死を実行してはならない」という、制度下安楽死のルールのひとつ。これは、患者が適切な緩和ケアを受けることなく、衝動的な安楽死をできなくすることが目的である。身体的な苦痛のみならず精神的な苦痛についても、国家認定緩和医の下で適切な治療が行われたうえで、それでもなお残る耐え難い苦痛がある場合に、国として安楽死を認めるということだった。つまり、国家認定緩和医といえども初対面の患者に安楽死を実行することは不可能だし、長い期間診療していたとしても、臨終間際になって初めて「やっぱり安楽死させてほしい」と申し出るのも認められない。
このルールに対しては「患者の気持ちは揺れ動くものであるのが当然であるのに、3か月前から気持ちを決めておかなければならないというルールはおかしく、患者の権利法の精神にそぐわない」という理由で改正運動が起こっている。一方、それに対し国側は「患者の気持ちが揺れ動くものであるからこそ、衝動的な安楽死の実行が避けられるようにしている。ある日には死にたい、と思っても次の日には生きてもいいかな、と思うかもしれない。実際にそれを裏付けるデータもある」「自らの死というものを、どのように考えていくかという過程こそが大事であり、それを医療者や身近な人と話し合う期間が重要と考える」と回答し、両者の意見は長い間平行線をたどってきていた。
「だから、私の外来にいる患者は全員まだ『レッド』よ」
「でも、亜桜先生も大変な仕事を選びましたよね~。もう制度ができてから10年以上たっているとはいえ、毎年のようにずーっと議論していて、いつまでたっても未完成って感じがしますし」
「だからこそ面白いんじゃない。それに」
「それに?」
「安楽死制度を育てていくことが、父との約束だからね……」
「あー……お父様との約束。そうでしたよね」
ちゃぽん、という音とともに亜桜は湯に腕を沈め、くるりと振り返って窓の外の陽を眺めた。
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