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社会的処方にフォローアップが必要ない、たった1つの理由
社会的処方について色々なところでお話をしていると、
「社会的処方をお渡しした方々って、その後はどうなるのですか?」
「社会的処方を受けた方がどうなるか、その後について責任を取らないとならないですよね?」
といった質問を頂くことがある。
なるほど確かに、社会的「処方」というくらいだから、その後にフォローアップが必要だと考えるのも当然だ。医者が処方を出して、そのまま放置することなど(明らかに風邪、といった場合を除いては)めったに無い。
それと同じように、例えば認知症をもっているサトウさんに、美術館でのアートプログラムを処方したら、その1か月後に「どうでした?」と成果を聞いた方が良いであろう。感想を聞いたり、成果を評価することで、良いと思える社会的処方なら、また別の方にも紹介しようかな、と思うだろうし、不評なプログラムであれば、もう二度と使わない、となる。そして、サトウさんにはまた別の社会資源とつなげることを試みるのだろう。そう捉えるなら、社会的処方は「薬」と何も違わない。
ただ、それが医者が行う社会的処方なら簡単にできるが、暮らしの保健室を始めとした市民活動の現場では、フォローアップをすること自体が簡単ではない。
認知症や慢性疾患があって医者に定期的にかかり続けている状況で社会的処方を受けるなら、「ではまた1か月後に」として、次の外来の予約が取られる。しかし、暮らしの保健室や市民活動はそういった「次の予約」というものが存在しない。利用者本人が来たいと思ったら来るし、そのタイミングも、1週間間隔でリピートする方もいれば、1度来たら次は半年以上姿を見せないなんてことも普通にある。
僕自身だけではなくイギリスなど海外においても、社会的処方を行うのは医療者やリンクワーカーといった専門職だけではなく、「おせっかいを焼きたい一般市民」でもあるべきことを推奨している。そのように裾野を広げていかなければ、町じゅうで孤独・孤立に陥っている人、その予備軍も含めての膨大な方々を支え合うことができないからだ。
では、こういった市民一人一人が社会的処方を行うとして、そのフォローアップが十分にできないのだとしたら、安全に実施することはできないから止めた方が良いのだろうか?
人へのまなざしが根本的に異なる
タイトルにも示したように、フォローアップができないとしても、社会的処方を止めるべき理由にはならない。
前段の文章を読んで「社会的処方は薬のように運用できた方が良い」と捉えてしまった方は、これまでの文章が「あえて医者っぽく」書いていた内容だということに騙されてしまっている。
医者というのは、患者さんを「管理する対象」として捉えてしまうことが多い。患者さんを「病気を持ったヒトという生物」として捉え、その病気を管理するために、それを宿している人間も管理する視点でみる。しかしその視点は、病気を治療する上では有用ではあっても、その人間の生活や人生に対しては害悪になるパターンがしばしばある。
それに対して、暮らしの保健室や市民活動をしている方々は、当然のことながらその利用者さんを「管理しよう」なんて考えたことも無いはずだ。
一時的に、社会的処方を通じて暮らしの保健室や市民活動と出会うことはあっても、利用者さんはあくまでも「その町でいつも通り生活している主体性をもった人間」である。暮らしの保健室に来るかどうかも自らの意思で決める、それは当然のこと。フォローアップをされたいなら、本人が主体的にそのように行動するだろうし、そうされたくないならしない。それだけのことだ。
社会的処方を行おうとする人は、その町にいる人間を「弱者」と捉えることに慎重である必要がある。
とある国では、車いすに乗っている人を、頼まれてもいないのに押してあげようとすること自体が「虐待」として非難されるのだそうだ。車いすに乗っている状態で、なんとか移動できているその人は、残されている身体機能を駆使し続けることで「社会の中で生活ができている」。しかし、それにも関わらず「車いすを押してあげる」ことは、その人に残されている機能を低下させ、車いすの運転も難しくし、最終的には社会から追い出す行為につながりかねない、ということだ(もちろん、本人が車いすを押してもらうことを望んでいたり、これまでの関係性がある中での行為であるなら別だ)。
社会的処方を受ける人に対し「管理をしてあげないと」と考えるのは、その人を「弱い人」と捉えているからではないのか、と自問する必要がある。
では、その社会的処方を受けた人がどうなったのかをどうやって知ればよいのか?
また、その社会的処方のつなぎ先が、今後も紹介するに値するところかどうか、評価する必要は無いのか?
それは、僕たちもその町の中で活動を継続的にしていれば、自然と分かることではある。
社会的処方をつないだ先の方々と、暮らしの保健室はつながっている。逆に言えば、暮らしの保健室とのつながりがあるからこそ、そこを紹介したということ。それであれば、お互いに長く地域の中で活動をしていれば、何らかの機会でつなぎ先の方々と顔を合わせることも多く、その時に「そういえば、サトウさんって最近いらっしゃっていますか?」と尋ねるだけで良い。仮に、その団体との付き合いは無くなってしまっていたとしても、また別のどこか・誰かとつながっていることもあり、全然違う角度からサトウさんに再会できることも、町なかではあり得る。
つなぎ先の良し悪しについても、長くまちの活動を続けていれば自然と分かるようになっている。誰からも支持されない地域活動が長く続けられるほど、地域というのは甘くはないし、またAさんには合わない活動だとしてもBさんには合う、といったことも多々ある。そのため、長く活動を続け、たくさんのつながりを作りづけている団体は、それだけでもう既に信頼できるのである。
このように考えていくと、社会的処方の実践においては、フォローアップが必要が無いことがわかっただろう。
つまり、「まちの中で活動を続けている限り、利用者さんも自分たちも、そのまちのネットワークの中にあり続けるから」である。安易に「弱者」と見なし、人を管理しようとするのは、社会的処方を行う上では慎む必要があるのである。
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