「もう何もできることはないんだ」というスタートラインに共に立つ
緩和ケアに関する、あるインタビューを受けていて、そのインタビュアーの方から、
「(終末期における)緩和ケアには行きたくない、という患者アンケート結果がある」
「緩和ケアにかからず、いつまでも治療の情報を求めてネットの世界をさまよう患者さんや家族も多いのでは」
「そういう方々に対して、緩和ケアの医療者は(抗がん剤や代替医療の代わりに)どういう『希望』を与えることができますか」
といったニュアンスでの質問を受けた。
この質問に答えるのは、正直言って苦しい。
僕ら緩和ケア医は、患者に対して希望を「与える」存在ではそもそもないんじゃないかな・・・と思うから。
もちろん、苦痛を緩和するためにモルヒネを処方したり、放射線治療をしたり、時には手術を計画したりすることはある。そういった意味での「医療行為」はずっと続く。でも、それは当然のことながら「それをすれば寿命が10年延びます」という類のものではない。緩和ケア医が「治療は行っています」、という内容と、患者側が求めている「治療」とには大きな乖離がある。
僕らと患者にとっての難しさは、「それをすれば寿命が10年延びる」といった意味において「もう何もできることはないんだ」というスタートラインに共に立つことなんだと痛感した。
特に、インターネットの世界にはまるで一発逆転の青い鳥が羽ばたく世界があるのではないかと錯覚させるものがある。足元の現実を呪い、遠い世界をさまよい続けている限り、スタートラインに立つことは難しい。
これはつらいし残酷な事実なんだけど、まずそのスタートラインに立つということができると「だけどまだできることがある」という希望が初めて追えるようになる。
実際に、緩和ケア病棟に来た患者の中で、「家族とすごす日常を1日1日大切にしたい」という方もいれば「未完成だった仕事を完成させたい」「最後の最後まで勉強を続けたい」など、「だけどまだできることがある」と言って、いのちの火を燃やし続ける方々がたくさんいる。それに対し僕らは、その火が揺らがないように、身体的・精神的苦痛を緩和する術を駆使する。
一方で、最後の最後まで「それをすれば寿命が10年延びる」という道を模索し続ける方もいる。
仮に「30日」といういのちの時間があるときに、そのうちの「1日」をインターネットの世界で過ごすのか、それとも生活を整える時間に費やすのか。
どちらの人生を選ぶか、それは僕らが「こちらにしましょう」と決めるものでも、評価すべきものでもない。
少なくとも、僕ら医療者自身が共にスタートラインに立つのが恐いからという理由で「もっとできることがありますよ」と囁くのだけは避けたい。
付記1:スタートラインに立てない医療者が「もっとできることがある」と囁くのは「偽りの希望」の処方、と僕は呼んでいる。真の希望は、誰か他の人が与えてくれるものじゃないように思う。僕ら緩和ケアの医療者は、患者本人がその「真の希望」を探す旅を一緒に歩み、転びそうになる石を取り除いたり、雨が降ったときに傘を差しだしたりしている。僕らが探してあげているわけではない。
付記2:医療者が「問題を解決する」ことが当然、と求められる場面が増えたように思う。緩和ケア医に対しても「あなたは私の問題をどう解決してくれるのですか」と求められる。身体的苦痛は確かに解決できるけど、「生きる」といううえでの問題は、僕らが解決して見せることはできない。それでも、もっとください、もっとください、と日々求められる。では何か与えられるものはないか、万能の処方はないか・・・という先に「安楽死」という究極の解決策が待っているような気もしている。
付記3:今回の話は「終末期における緩和ケア」に限定した話だけど、実際には緩和ケアは終末期だけではなく治療の早期から入ることが当然とされている。
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「コトバとコミュニティの実験場」 僕はこのマガジンで、「コトバ」と「コミュニティ」の2つをテーマにいろいろな記事を提供していく。その2つを…
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