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#ずいずい随筆④:山崎亮さんと社会的処方を語る

 コミュニティデザイナー、山崎亮さん。
 僕が初めて山崎亮さんを知ったのは、確か『情熱大陸』だったと思う。「コミュニティデザイン」という言葉のパワーに惹かれたことも事実だし、その実践、住民の方々とのコミュニケーションが、するっと相手の懐に滑り込んでいくようにみえて痛快だったのを覚えている。以来、山崎亮さんとstudio-Lのファンとなった僕は、『コミュニティデザイン(学芸出版社)』をはじめ、彼の新刊が出るたびに読み漁った。

 何かのイベントのとき、その『コミュニティデザイン』に学生として登場していた西上ありささんとお会いすることができ、その後マギーズトーキョーのイベントで、憧れの山崎さんともお会いすることができた。とはいっても、そのときはどちらも、あいさつ程度だったのだけど。それがまさか、社会的処方プロジェクトが縁でstudio-Lの方々と一緒に仕事をすることになり、そして山崎さんと対談できることになるとは思っていなかった。10年前には、テレビの向こう側だった方と、肩を並べられる場に立てるのだから。

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地域活性化すると健康になる

 大阪・リーディングスタイル あべので行われた対談で、山崎さんは冒頭に書籍『社会的処方』の紹介をしてくれる中で、
「僕はこれまで『地域活性化』と言ってきましたが、いろいろ言われることが多かったんですね。『本当に活性化しているんですか?』とね。活性化してるじゃないですか、みんな楽しそうにしてますよ、って言うんですよ。そしたらね、お金の話だ、と言われるわけですよ。活性化=儲かったのかどうか、という基準で評価される。でもね、僕はこの本を読んでよかったと思ったんですね。儲かるかどうかわからないけど、健康になるんじゃん、とね」
と、大きく持ち上げてくれた。

 もちろん、この社会的処方という概念、全てが完ぺきというわけではない。この対談の中や、打ち合わせの席でも山崎さんからもいくつもの指摘を頂いた。
 例えば、マネタイズの面。本文の中で、リンクワーカーとしての心得だったり、「こういうことはしないほうがいい」的なことがいくつか書いてあるんだけど、「こんないろいろな守らないといけないことあって、それでも無償で『やりたい!』って本当に思うかなあ?」とか。お金が発生するならまだしもね。
 この点については、イギリスでも「医療機関側に近いリンクワーカー」と「コミュニティに近いリンクワーカー」というのがいて、前者は有給で、後者は無給で活動している地域があるので、それが参考になるかもしれない。全てのリンクワーカー的な活動を「お金」で評価するのは難しいけど、専門性によって分ける。後者のリンクワーカーのモチベーションは「だってそれは私たちの地域にとっていいことなんでしょう?」という、楽しみながら地域を良くしていこうという姿勢だった。

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 この対談で語られたことは多くあるが、その中で山崎さんが一貫しておっしゃられていたことが社会的処方・リンクワーカー活動に対する「お金や形に残るもの以外での評価」だった気がする。
 例えば、山崎さんは途中で僕が趣味的にやっているリレーショナルアート活動について触れ、
「彫刻とか絵画とか、そういう形になるものを作り発表するのが古来のアートであり、それを展示し販売するのがギャラリーの役割だった。そうすると、アーティストたちは『よく売れる(大衆受けする)』ものを作ることを求められる、もしくは自ら作っていくという流れになり、アートという意味合いから離れていくものも多かった。そんな中で一部のアーティストたちは『この場でしか表現できないもの』『動かすことができないもの』を制作して、ギャラリーから逃れようとした。そのひとつがリレーショナルアートで、著名な彫刻家がギャラリーで料理をふるまって、そのやり取りの関係性こそがアートだ、と言ってみたり、美術館に展示した花壇から花を持ち帰ってもらい、その花を帰宅途中で誰かに必ず渡さないとならない、そこで生まれるものがアートだと言ってみる。もう、こういう形だと、食べた人や花を持ち帰った人を全員追跡することもできないし、作品集も作れないし、その場で消えてなくなるものだから売ることもできない。そういう「かたちに残らないもの」の価値をアートが追求してきた。
 かたちに残らないものの価値をどうやって伝えていくのかが課題。それは社会的処方・リンクワーカーの取り組みもきっとそうなのだと思う。何人の患者さんにつながりを作って、いくらの医療費が削減できました、という従来の評価軸にとらわれがちだけど、だれのこころに響くようにどうやって伝えていくのか検討したほうがいい」
といったことをおっしゃった。

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もちろんたくさんの課題もある

 僕自身が一番悩んでいることも伺ってみた。それは実際に、地域資源と患者さんがうまくつながるためにどうつなげればいいのか?という疑問。地域資源、例えば釣りサークルを開催している人たち側が、医療者やリンクワーカーから急に「この患者さんお願いね」と丸投げされても戸惑うだろうし、かといってリンクワーカーが患者さんの保護者ばりに、釣りの現場に付き添っていって、サークルの人たちとうまくつながれるようにお世話をするというのも違うと思うのだ。

 山崎さんは「それはとてもむずかしい」「イギリスではどうしているかと逆に知りたいくらい」と答えたうえで、
「例えばいま対談の場所になっている、こういう本屋さんのカフェスペースみたいな場所がクリニックにあればいいんじゃないか。そしてこういう場所を市民活動をしている方々に無償で貸す。そうすると、お茶スペースを自由に使えるといったメリットを提供することと引き換えに、市民活動とリンクワーカーがつながりやすくすることは可能かもしれない」
という意見を頂いた。確かに、まず医療者側・リンクワーカー側から地域のために何ができるか、ということを考えて入り込み、地域の中での信頼性を作っていくことから始めるのは特に日本においては大事なことかもしれない。この点については、実際にイギリスの関係者や識者に追加取材をしていきたいと思う。

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 また、会場からの質問の中で「障害や病気を持っている方々と仕事をしていくための心構え」のようなものがあったが、それに対する山崎さんの回答が面白かったのでご紹介。
「『仕事』は、つくりたいものがあり、つくりたいものをピースごとに発注する。成果物の形が先にあって、それをいかに効率よく作れるか、という話になるから、じゃあ健常者を雇うのがいいよね、という話になる。一方で『地域づくり』はできることを持ち寄る。持ち寄られたものをどう組み合わせるか。例えば、集まったメンバーの中に精神疾患はあるけどパン生地こねるのがめっちゃ好き、っていう方がいたら、パン屋さんやればいい。で、そのメンバー抜けたら、また別のことをやるように変えたらいい。それぞれの得意を持ち寄って、組み合わせて、楽しくてやり続けたいことになるのがよい」

 これって書籍『社会的処方』で書いたことの本質のひとつで、社会的処方研究所のロゴはどうしてジグソーパズルなのか?という文脈で書いたんだけど、人間ってどんな人でも凸凹しているはずなのってこと。得意なこと好きなこと、苦手なこと嫌いなことってあって、仕事は個人の凸凹に関係なく、会社が定めたカタチに当てはまるようにしないといけないんだけど、地域活動なら凸凹そのままでいいってこと。
 社会的処方に対する批判で「都会にはリソースがたくさんあるけど田舎にはない」っていうのがあるんだけど、そりゃあもちろん人口数百人とかの村ならそうかもしれないが、数千人以上いる町の、その全ての人がみんな凸凹していないってことなんだろうか?それは単に、みんなが凹の部分ばかりを見る社会なのか、社会全体に熱がないから凸を主張しづらいってことなんだろうけど、その熱を入れる(これから手をあげてもらおう)ための本がこの『社会的処方』なのだから、「田舎には何もない」って悲観論はちょっと視座が違うのだと思う(間違っているという意味ではなく)。

 山崎さんは、
「社会的処方を文化にしていくためには、正しいだけではダメ。市民が行動を起こすためには楽しさがかけてはならない」
 とおっしゃった。本当にそう。そのような、かたちに残らないものの価値を、だれのこころに響くようにどうやって伝えていくのか、その点についても考えていく必要がある。


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