01国家認定緩和医
こちらは『褐色の蛇~国家認定緩和医・望月亜桜の日常』の「プレ公開版」です。定期購読マガジン『コトバとコミュニティの実験場』メンバー限定となっています。正式版は2021年春頃に無料公開予定です。
「802号のスズキさん、もうすぐ呼吸止まります!」
「ほんとに?814号室もさっき急に止まったのよ。家族に連絡しないと。そっちは家族付き添ってるの?」
緩和ケア病棟は、朝からバタバタと忙しい。この場所では死は日常だから、泣き崩れるスタッフはさすがにいないけれども、死の瞬間には多くの感情が交錯するから緊張感が高まる。
「おっはよー」
ピリピリした病棟の空気をあえて読まず、亜桜があくび交じりにナースステーションに入っていくと、看護師の赤垣が駆け寄ってきた。
「802号が止まりそうなんですよ!」
「えっと802号の方って・・・。ああスズキさんか。確かに、昨日から意識が落ちているって運野先生言ってたからなあ・・・。運野先生には連絡した?」
「連絡したんですけど、お電話がつながらなくて。家族がけっこう動揺しているので、一度ドクターに診てもらいたかったんですが・・・」
「あーそう?まだ病院に着いてないのかもね。いいよ、私が行くよ」
「ありがとうございます!」
亜桜は廊下を歩きながら、先ほどまでの眠そうな表情を作り直して呼吸を整え、病室の前に立った。
「赤垣、酸素って何リットルいってる?」
「いま、指示で15リットルです」
「じゃあ、音がうるさいでしょう?」
「ええ、シューシューいってますね」
「ふーん・・・。ちょっと消音装置準備してくれる?私が合図したら酸素の音消して」
「消音装置・・・?はい、了解しました」
病室のドアを軽くノックし、ゆっくりと病室に入る。
「失礼します。ドクターの望月と申します。主治医の岩田はいま病院に向かっているとのことなので、それまでの間、私が拝見しますね」
肩で喘ぐような呼吸をする患者と、ベッドを遠巻きに立ち尽くし涙を流す妻と子供たち。亜桜はベッドサイドの椅子に、白衣を翻してふわりと座り、ゆっくりと脈を取り始めた。
1秒、2秒、3秒・・・
亜桜は目を閉じて音を聞いていた。この病室の中にあった、たくさんの音。亜桜が押し黙って患者に触れている時間で、それらの音がひとつずつ落ちていく。看護師が歩く音、家族の嗚咽の音、酸素マスクから流れる音・・・。
「胸の音を聞きますので、酸素マスクの音だけ、ちょっと消させていただきますね」
亜桜が柔らかな声で家族に告げたタイミングで、赤垣が消音装置のスイッチを入れる。途端に、酸素マスクからのシューシューという音も消えた。それを確認し、亜桜はまたゆっくりした動作で聴診を始める。右の胸、左の胸、また右・・・。病室の音がすべて床に沈み、空気が落ち着いたことを確認して、亜桜は聴診器を外した。そしてまた、1秒、2秒、3秒・・・亜桜はあえて言葉を出さず、丁寧に患者の着衣を整え、ふわりと椅子に戻る。
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「コトバとコミュニティの実験場」 僕はこのマガジンで、「コトバ」と「コミュニティ」の2つをテーマにいろいろな記事を提供していく。その2つを…
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