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人力車からシクロへ〜仏人ピエール・クーポー考案の「ベロプス」がシクロに

 私がはじめて三輪自転車タクシー「シクロ」に乗ったのは1988年のホーチミン市だった。シクロの車夫は「俺は元ベトナム政府軍のヘリコプターのパイロットだったんだぜ」とポツリといった。言外に「今は最低の職業であるシクロの車夫だがね」という自虐の響きがあった。戦後13年の旧サイゴンにはまだ戦争が影を落としていた。

 後年、シクロが日本の人力車から派生した乗り物だと知った。二輪の人力車に自転車をとりつけたような三輪車が他の東南アジアの国々にも広がりをもっていることもわかり、それがシクロのことを調べるきっかけとなった。

 インドシナ総督府の公使ボンネルが1883年、日本から二台の人力車を輸入し、一台を総督に贈呈し、もう一台を見本に地元企業にコピーを製造させたとの記録が残っている。

 1880年代末にはチョロン(中国人街)やサイゴンで人力車の営業運行が開始され、1890年代には人力車のメーカーも次々と出現した。1900年代には鉄製車輪にゴムのリムを備えたソフトクッションの高級人力車も製造、販売されるにいたる。1920年代には交通規制が必要なほどに人力車は普及するまでになる。同時に、車夫の過酷な労働は植民地支配の過酷さの象徴となり、新聞紙上での批判を浴びるようにもなっていた。

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 Le Paria紙(1922年9月1日付)の仏植民地支配の風刺画(グエン・アイ・コック=ホー・チ・ミンの署名がある)

 1927年、あるフランス人が人力車修理を目的としてプノンペンに会社を設立する。名称は"Établissements Pierre Coupeaud & Co"、創立者の名を冠した会社名だ。ピエール・クーポー、彼こそがのちに「シクロ」の考案者となる人物だ。

 クーポーは1872年、フランス・シャラント県のペレイユに生まれた。ブランデーの産地として有名なコニャックにも近い街だ。数学者のポワンカレ、日産元社長のカルロス・ゴーンの出身校としても知られる名門校・パリ国立高等鉱業学校を卒業、1893年に軍の招集に応じて軍隊に入り、1919年に退役している。

 1920年代に彼は仏領インドシナのカンボジアに移住した。彼は自転車とサッカーを愛するスポーツマンでもあり、自転車、スポーツ用品の販売、人力車の貸出しなども事業としていたようだ。

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L'Echo annamite紙(1927/11/15付)に掲載された同社の新聞広告

 1930年代にはいると、人力車は人間を馬扱いする「非人道的な」乗り物であるとの批難を受けるようになり、フランス本国や総督府も人力車に代わる新たな乗り物の必要性を認識し、公共事業省および植民地省はツール・ド・フランスのチャンピオンでもあるジョルジュ・スペシエとルネ・ル・グレベの二人に各種「三輪車(tri-porteurs)」の走行試験をパリのブローニュの森で実施するよう依頼した。

 クーポーは前二輪、後一輪の三輪車で、前方に客を乗せ、後方に車夫が運転する"vélo-pousse"(vélo=自転車、pousse=人力車。当時人力車は”pousse-pousse”と呼ばれた)」を考案しパリで試作、それをプノンペンに持ち帰り、1935年、市政府から運行許可を得て人力車に代替する乗り物の製造を開始した。

 サイゴンのCoutellier氏は”tri-pousse”(三輪人力車)と称して客を後ろに乗せ、車夫が前でペダルを踏む形の車両を提案したと当時の新聞”Le Nouvelliste d'Indochine”が報じている。

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植民地省・公共事業省代表に「ベロプス」を紹介する二人のチャンピオン
(Le Miroir des sports, 8 Juillet 1937 No.953)

 クーポーは「ベロプス」のコーチシナ・サイゴンでの販売・流通をサイゴン当局に申請するも、発明が革命的に過ぎるとして当局は許可しなかった。「ベロプス」の車夫は客の後ろでペダルを漕ぎ、人間が馬の代わりに車をひくような、人間の品位を貶める人力車よりよほど人間的であると訴えたが、当局は首を縦にふらない。

 そこで彼はサイゴン市当局に「ベロプス」の性能をアピールすべく、現地の自転車乗り二人を訓練し、「ベロプス」を二人交代で運転する試験走行を計画する。プノンペンからスバイリエンを経てサイゴンに至る240kmのコースである。

 1936年2月9日午後4時、プノンペン商工会議所前を出発、二人は交互に漕ぎ手となり夜を徹して走行、翌朝午前9時30分にはサイゴンに到着した。フェリーに乗船した50分を除き、走行時間は17時間20分、平均時速15kmをマークしたと、当時の新聞”Le Journal"紙は伝えている。

 また、この新聞には開発者が考案した車両に名付けた"vélo-pousse"のほかに"cyclo-pousse"(シクロプス。cyclo=自転車、pousse=人力車)の言葉も見える。のちにこの三輪タクシーを呼称するベトナム語の "xích lô"(シクロ)の語源となることばだ。

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「ベロプス」のプノンペン〜サイゴンの試験走行を報じる新聞記事
(Le Journal, 11 Avril 1936)

 プノンペン〜サイゴン間のデモンストレーションが功を奏したのか、翌年の1937年2月19日、サイゴン・チョロン区区長政令として「"Cyclo-pousse"運行規制」が発令された。「シクロプス」とは「乗客の座席は前方にあり、運転手の座席は後部にある。三輪車であり、走行方向を制御する二輪と駆動用の一輪からなる」と規定され、車輪の直径や車長についても定められていた。

 その後、サイゴンで20台のシクロプスの運行が許可された。1939年にはサイゴン市内を200台もの「シクロ」が走行していると記録されている。1942年に仏領インドシナを訪れた、金子光晴の妻で作家の森美千代もその紀行文「仏印から帰って」で市内を走る「シクロといふ三輪車の乗物」を紹介していることから、ハノイへの普及も早かったことがわかる。

 1936年6月、フランス本国では急進党、社会党、共産党の左派三党による人民戦線内閣が発足し、労働者の2週間の有給休暇を法律で定めると同時に「インドシナの現地人労働にかんする政令」を定め、植民地総督にも減税、強制労働廃止などを要求、仏領植民地の現状を明らかにする「海外領調査委員会」を設けるなど、社会改良政策を植民地にまでおよぼそうとの本国の動きが「より人道的な」シクロの認可と普及に影響したことは想像にかたくない。

 ただ、人民戦線政府はその経済政策の失敗から2年と短命に終わり、その後フランスではドイツによる侵攻の結果、親独ビシー政権が成立、戦後もホーチミン率いる政府に独立は認められず、ベトナムがフランスからの独立を目指して闘う第一次インドシナ戦争が開始された歴史を知るわたしたちには植民地に対するこれらの施策も虚しく映る。

 シクロが誕生しておよそ85年が経過し、人力車はおろか、そこから派生したシクロさえ観光客用の乗り物となってかろうじて生き残っているにすぎない。しかしそのシクロにもイノベーションの歴史があったことを記録にとどめたい。

<参考文献>
出典:Bibliothèque nationale de France https://www.bnf.fr/
・Le Miroir des sports, 8 Juillet 1937 No.953
・L'Echo Annamite, 15 Novembre 1927
・Le Journal, 11 Avril 1936
・Le Nouvelliste d'Indochine, 8 AOUT 1937
・Bulletin Administratif du Cambodge, Février 1927, p.195
"PIERRE COUPEAUD AND THE GREAT CYCLO TRIAL OF FEBRUARY 1936" Tom Doling
"The Rickshaw Trade in Colonial Vietnam, 1883–1940" H. Hazel Hahn
"Pierre Coupeaud, l’inventeur du cyclo-pousse" Cécile Négret/Le Boutillon des Charentes No 61 octobre - novembre 2018
"CHẾ ĐỘ THỰC DÂN PHÁP TRÊN ĐẤT NAM KỲ 1859-1954" Nguyễn Đình Tư/NXB Tổng Hợp TPHCM
「1936-37 年ハノイにおける労働者ストライキ運動」岡田友和
「東南アジアの三輪車」前川健一/旅行人
「仏印から帰って」森美千代

 

 

 

 


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