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楽観的に悲観する

お盆やお正月の間は、妻帯者の方とお付き合いされている方々にとっては、つらい時期を過ごされているのではないでしょうか。
私はそうです。
ここ数年、つまり、実際に個人的な関係が出来上がる前から、職場で毎日顔を合わせたり、LINEでやり取りがあったりしたので、この「盆と正月」は、先生(ここでの呼称。職務上、尊敬すべき存在なので)とコミュニケーション取れないのは、何となく寂しさを感じていました。

と、言いながら、この夏を振り返れば、少しホッとしている自分もあります。
なぜなら、先生が職場に近いマンションをあとにし、ここから2時間近くの、妻の待つ(おそらく彼女のご両親も住む)自宅に戻られている間は、夜間、急に誘われることがないからである(ここから常体)。
これもまた、ぞんざいな扱いを受けているようにも思えるが、我々が職場以外で出会うのは、八割方、1時間前くらいに予定が決まる。

私は基本的に、夫と別居中のため、仮性シングルマザーとして、夕方からは母としての業務があるし、
先生は管理職として、あるいは自分のコミュニティや勉強のために、それなりに忙しい(この間までは末期癌の親友のために、毎日病院に通っていた)。
しかも、2人とも昇進試験のため、受験勉強中だ。

だから、
今夜会えますか?
という、LINEが来たとしても、私が寝ている時もある。
そのメッセージ、あるいはそう書かれたであろうメッセージの送信を取り消されたであろう表示が見えた朝は、大魚を逃したような気持ちになり、とても悲しい。
しかも大抵それは午前3時とか4時。返信するわけにもいかない。

すると、ダラダラ家事をこなしながら、携帯電話にいつ来るかわからぬメッセージを待つようになる。必然、眠りにくくなるし、効率も悪くなる。

しかし、お盆は違う。
先生からのお誘いはない、と見切って行動できる。明日は朝から遠出する、と決意すれば、早寝早起きだ。
美術館(他県)に行くぞ!
と、朝ごはんを食べながら、子どもたちに宣言する。小学生の弟2人は食べるのが早いので、iPadで行き先の情報や経路を確認させる。中学生の兄がぽやーっとテレビを見ている内に、家事を済ませる。
そうこうしている間に、子どもたち3人とも、朝からゲームを始めてしまうのだが、母の行動パターンをよくわかっていて、私が嫌いな化粧(と言っても、シミを隠して、口紅で血色がいいようにごまかすだけ)を始めたら、出発10分前だ、と冷蔵庫から飲み物を用意して、
先に車に乗ってるよ!
と、叫びながら玄関をあとにする。

ドライブで助手席に乗り込むのは、長男か次男。それは、その日の、3人の話し合いの結果だ。「助手」席なのだから、運転手に座る母を助けよ、と常々話しているので、彼らはエンジンがかかれば、すぐにナビを設定する。そして、母の機嫌を伺いつつ、
好きな曲、かけていい??
と、交渉してくるのである。

最初の目的地に到着したのが8時50分、日本を代表する観光名所……は言い過ぎかもしれないが、そこはもうすでに道が混んでいる。美術館の開館が10時からなので、その前に近くの神社に参詣する。
そこは、有名なお寺やおみやげ物屋も多いので、人、タクシー、バスが、うじゃうじゃ見られる。

神社近くの有料駐車場に車を駐めたら、早歩きで目的地へ向かう。中学生の兄は、
えっ!?どこに行くの?美術館じゃないの?
と、私をイラッとさせる言葉を発するのだが、
気の利いた次男が、
違うよ、まだ時間があるから、神社に来たの、
と、私の気持ちを代弁してくれる。

神社に参った最後はおみくじを引く。
長男は大吉、次男は吉、三男と私は末吉だ。
そういえば、数年前、私と長男が、ここと似たような場所で大凶を引いたことがあった。
その後、長男は運動会前だというのに、遊んでいて足の指を骨折し、私は職場で同僚から「いじめられた」と、訴えられてしまうのである(詳しく書くと大変なので、あえて弁明しないが)。
まあ、いいや、これも人生の経験、と今ではそう思えるが、大凶、恐るべし、とその時は人知れず驚いていた。

おみくじとともに、御守りを購入するのだが、息子たちは大して願いもないので、希望なし。
私は受験生なので、合格守を買い求める。こっそり同じ受験生である、先生の分も購入する。

白衣を着た女性から、御守りを受け取りつつ、
これを手渡すときは、いつになるのかな、
と思うと、ちょっと淋しくなる。

先生とは会えない上に、LINEのやり取りも全くない。
それでもいいさ、先生は良き夫や息子として、
私は子どもたちの母として、それぞれの責務を果たそうではないか。
この時期が過ぎて仕事が始まれば、また出会えるじゃないか。

この間、2人で雨の中、まだ暑さがひどくない時期に、私の車の中で、ひとしきり動き回ったあと、先生の将来について、先生自身の考えを聞いた。

このまま、ここ(私たち家族が住んでいる田舎町)で、管理職として、あと5年勤めて、
そのあと、もう一度現職、あるいはそのアドバイザー的な役割で勤めるのが、さらに5年。
そんなものですかね、
と先生が説明してくれたので、
たして、10年ですか。
そのあとは、ご自宅(のある地方都市)に帰っちゃうんでしょう?
さびしいなぁ、
と、私が単調に、乾いた口調で返すと、
全然、心が入ってないですよね、その言い方。全然淋しくなさそう、
と、先生に笑いながらつっこまれた。

あえて、そうしてるんですよ、
と、私は心の中で呟く。長くて10年、本当にこんな関係が続くとは思えない。
それまでに同僚ではなくなるだろうし、同じ市内に住んでいるからとて、仕事が忙しい2人だ、連絡も途絶えがちになるだろう。

さらにいえば、飽きっぽい先生のことだ、10年なんて考えられない。私とのやり取りに飽きたら、そこで終わりだ。

そう思えば、こうやって出会えなくなる時期がある方が、この関係を続けるには、得策ではないのだろうか。
noteで同じようなご関係を続けておられる方の記事でもあったように思う。不倫など、性欲を満たすだけで、何を目標にすればいいのか、みたいな。
若い頃は、交際の、ずっと向こうの目標には、結婚があった。子育てがしたかった私にとっては、それが大きな目標だった。

しかし、アラフィフになって、経済的にも、社会的にも1人で何とかやっていけそうな、子育て中の私にとって、今の先生は、寄りかかれる相手ではない。
妻帯者だからだ。
私は私で、別居はしてるが、未だ既婚者である。

じゃあ、なぜわざわざリスクを冒してまで、先生に会うのか。
楽しいからである。

学生のころ、「デス・エデュケーション」だったか、死の準備教育、という言葉に出会ったことがある。詳細は忘れてしまったが、死を意識することは、決して悪いことではなく、そのことによって、どう生きるかが鮮明になる、みたいなことだったように記憶している。

それと同じだ。別れることがわかっているから、会える時も、会えない期間も大事にしたい。

いつまで続くかわからないけれど、お互い敬意を忘れず、会うのが楽しみになる関係を保てればいいな、と、心から願っている(さすがに、それは神様には祈れなかったが)。

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