サルトルと伊集院さんが私のなかでうまくつながった話

サルトルは、高校の倫理の教科書、それから繋がってくる大学入試において無神論的実存主義者の代表格として扱われる。頻出の哲学者だ。

最も有名なキーワードは「実存は本質に先立つ」だろうか。これは人間の特質について語っている。例えばナイフは「物を切る」という本質が先にあってから実際の姿形、つまり実存が作られる。それに対して人間は、先に実存が現れる。本質を持たずにこの世に存在するということになる。

では、持って生まれなかった本質はどうするのか?自分が自由にこの世の中から選び取るのだ。この「自由」というのはとてもキツい。無限にある選択肢の中から自由に本質を選びとれ、と言われてもどうしていいかわからなくなってしまう。サルトルはこの状況を「人間は自由の刑に処されている」と表現している。

ではどうしたらいいのか?サルトルが示す処方は「アンガージュマン(社会参加)」だ。自己の本質を見出すためには、自ら社会に関わっていくことが欠かせないという意味だ。(それも難しい、というツッコミもありそうだけど)

この話を聞いた時、私の頭に浮かんだのは伊集院光さんがある時ラジオ(深夜の馬鹿力)で言っていたことだ。たしかこんな

死ぬまでの時間って壮大なヒマじゃないですか。人生って死ぬまでのヒマつぶしなんですよ。ヒマつぶしなんだから、本人が納得すれば何したっていいんですよ。

(録音音源を探そうとしたが、ストックがありすぎて断念。主旨はこんな感じだと記憶してます。)

当時思春期真っ只中で先がまったく見えず、漠然とした不安を抱えていた私にこの言葉がすっぽりとハマった。「そっか、人生ヒマつぶしなのか。だったらもう少し気楽に構えてていいな。幸い打ち込めているもの(部活だけど)はあるし、何だったらコレをヒマつぶしのメインに据えてもいいかもしれないし。何とかなりそうだ。」と気がすごく楽になった。

サルトルの話と共通点が多いのではないだろうか。
「死ぬまでヒマ」ということは、何かしなければならないことがあるわけではない。つまり、生まれ持った本質を持ってはいないということ。
「本人が納得すれば何をしてもいい」というのは、本人が自由に本質を選び取ってよい、ということ。
都合よく読み替えているだけかもしれないが、サルトルの話を聞いたときにこんな感じにうまく結びついて、伊集院光さんはとても面白い哲学のプレーヤーだなぁ、と感心した。という話。

※「人生死ぬまでヒマつぶし」というのはウルトラマンシリーズに関わった実相寺昭雄さんが元祖らしいというのは後で知りました。

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