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祖父のこと

「なんでぼくの写真が仏壇にあんの?」と、小学生の自分は母親に尋ねた。その時の記憶は、糠床の匂いとセットだ。思い出すたび、夏の熱気に煽られて台所に広がるその匂いが脳内で再現され、今でもむせかえるような気分になる。
それは、母の弟の写真だった。小学生の時に亡くなった、自分にとっては叔父にあたる人だ。

その叔父はとにかくやんちゃだったらしい。三人兄弟の家族の中で、長女と次女の次に生まれた末っ子として猫可愛がりされていたことは容易に想像できる。家制度が常識であった祖父にとっては、待望の男児であり、たったひとりの大事な跡取り息子。そんな子が、授業をさぼって遊んでいた裏山の木から落ちて亡くなってしまったと聞いた祖父の気持ちは、どれほど悲痛だっただろうか。当時祖父は、四国沖で漁をする漁船に乗り込んでいた。電報か電話か、その報せを聞いた祖父は、狭い漁船のベッドで苦悶したのであろう、寝ている間に床に落ちてしまったという話を誰かから聞いたことがある。

母方の実家は、和歌山県の鯨の町、太地町。家族で帰省するのは、決まって盆か正月。学校でもらった通知簿を、母は親戚たちに見せる。特に父方の実家では、まるで自分のことのように誇らしげに。しかし今思い返せば母方の実家ではどうだったのか。見せないということはなかったと思うが、祖父に褒めてもらった覚えはない。
亡くなった叔父と自分。見た目はそっくりなのに、中身は全然違う。むしろ正反対。祖父から見た自分はどう映ったのだろう。近頃はそんなことを考えるようになった。

正月にはたくさんお年玉をもらった。どうせすぐに親に取り上げられてしまうお年玉。袋を開けると滅多に目にしない聖徳太子の一万円札が出てきた。その透かしが面白くていつまでも眺めていると、後ろから祖父がやってきて「偽モンちゃうわ」と鋭く怒鳴られた。
祖父は将棋が得意で、町内の寄り合いによく顔を出していた。家にも将棋盤があるのを見つけ、覚えたての自分は祖父に相手になってもらった。しぶしぶ始めた祖父は、ものの1分も経たずに小学生の自分を容赦無く打ちのめした。そして立ち上がり「一緒に出来るわけないやろが」と冷たく吐き捨てるように言って家を出て行った。残された自分は、祖父の厳しい目つきを見て体が縮こまり、訳もわからず泣いていた。
祖父は大酒飲みだった。見合い結婚だった祖母は「博打はやらない、酒は少々って言われて結婚したのに嘘やったわ」とよくこぼしていた。今思えば、常に酔っ払っていたのかもしれない。顔色ひとつ変えずに呑む人だったので、自分にはよく分からなかっただけとも考えられる。

一度だけ映画に連れて行ってもらったことがある。ウルトラマンの特別編。祖父はずっと寝ていた。映画が終わり劇場が明るくなって起きた祖父は一言「人間が想像するもんは時間が経てば実現するんやで」と言った。後年、これがジュール・ヴェルヌが語った言葉だと知ったのだが、祖父はそれを読んでいたのだろうか。もしくは自分で悟った真理だったのだろうか。
宇宙を翼のついた飛行機が猛スピードで飛び交うような、荒唐無稽な話。宇宙でミサイルを撃ち合うような映画を、戦争で兵役についた経験のある祖父は見ていられなかっただろう。今となっては申し訳なく思う。
実家には昭和天皇から頂いた勲等の賞状が飾られていた。病気を理由に兵役を途中で免除された祖父に贈られたものだった。

サラリーマンになるのが幸せな一生の王道とされていた昭和の時代において、祖父は前時代を生きていた。定職がなんだったのかは、未だに分からない。ある時祖父は、田舎で好まれている魚を安く大量に仕入れて都会である和歌山市に持っていき一儲けしようとした。しかし、都会では馴染みがないそんな魚を買う人はおらず、大損を出してしまった。
漁船に乗ったり炭鉱で働いたり、という話は聞いたが、どれも上司と折り合いが悪く、喧嘩して辞めてしまっていたらしい。明治の終わりに実家近くの炭鉱で労働争議があったのを最近知ったが、祖父はその渦中にいたのだろうか。
根っからの社会党支持者であった祖父は、土井たか子の大ファンだった。おたかさん、と親しげに呼ぶ祖父は、珍しく機嫌良く見えた。
テレビでお笑いを見ている時も機嫌が良さそうだった。萩本欽一が好きだった祖父に喜んでもらおうと、雑誌に載っていた欽ちゃんの似顔絵を真似て年賀状に描いたものの、正月顔を合わせたら「全然ちゃうわ」としか言われなかった。

とにかく祖父に可愛がってもらった覚えは一切ない。孫は目の中に入れても痛くないと言う今の風潮とは一線を画していた。ただ今思えば、祖父なりにどうしようもない面もあったのだろう。ああいう人だったのだ。色んな条件が重なって、ああいう人になったのだ。
その一つに、亡くした息子を思い出し、その子の幻影と比べてしまった可能性もあると、今では想像できる。自分の子孫なのにこんなに違うのかと失望したのかもしれない。
そうは言われても、こちらとしてはどうしようもない。いくら見た目が似ていても違う人間だ。それは如何ともし難い。
かたや、孫を相手に全く大人気ない老人だったな、とも思う。ま、不完全な大人というのは沢山いる。というか、完全な大人なんていないんだということが、今となってはよく分かる。

そんな祖父が亡くなったのは、自分が高校生の頃。横浜のアパートで一人暮らしをしていた自分は、新幹線で田舎に向かい葬儀に出席した。元のアパートに帰るとまた、なんてことのない日常が戻った。
しかし何週間か経ったのち、突然異変が起きる。
一人暮らしのアパートの奥の部屋から、猛烈な線香の匂いがするのだ。窓を開けて換気をしても治まらない。原因になるものが何なのか、葬儀に着ていった服なのか、小物なのか。色々想像して匂いを嗅いでも、臭気の出どころは分からない。
そこでふと気づく。そうか、今日は四十九日だ。この世から離れていく祖父が、最後に様子を見に来てくれたのではないか。

まあ、そんな訳はないのではあるが。
優しくしてもらえはしなかったけれども、少なくとも嫌われていたわけではない、そう思える出来事として今は記憶に残っている。

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