考察は好きでも議論という建前の口論が発狂するほど嫌い
はじめに
2021年も2月に突入した。この時期はコロナ禍以前であればマラソン大会とか開催しててその準備で忙しいのだが、今年はコロナ禍なのでマラソン大会も参加できないため、各種番組の最終回と第1話が放送されるということで精神的に不安定な時期であるように思う。特にこの時期は議論という建前の口論を仕掛けられることが多く、その場合発狂して他の事がまるで手に付けられなくなり、本業にも影響が及ぶので、ここで思いの丈を語っておきたいと思う。
考えること自体はものすごく好きである
私は過去のnoteにあるように、好き勝手に考察すること自体はものすごく好きである。長谷川裕一さんの「すごい科学で守ります!」シリーズが好きで、とにかく事実に基づいて理屈を作るのが好きである。だから本編で起こった出来事から物事を補完するタイプのコンテンツを作っている。超獣戦隊ライブマンにおいてビアス様の採点結果と本編の出来事を照合してツッコミを入れるボルトレビュアーズや、高速戦隊ターボレンジャーにおいて他作品とのクロスオーバーを交えて出来事を想像するむさしのタイムズなどが典型例である。
とはいえこの考える行為はあくまで腰を据えて行っていることが前提であり、即興で作っているものではない。(もちろん時間は無限ではないので思慮不足な点は多々出てくるわけであるが。)
議論という建前の口論とは
とはいえ議論も特定の種類のものは好きである。それはお互いが意見を出して意見をより良い方向へ持っていくための議論である。会社の仕事とかでは自分の意見だけではいかんともしがたく、客観的な視点が必要となる。そのため第三者に意見を吟味していただき、現在の状況に沿った最適解を見つけるための議論は本当に大歓迎だし、議論に付き合ってくれている相手には本当に感謝している。
しかし仕事の議論でも、単に自分の意見を押し付け合い、煽りや反芻など小手先のテクニックを駆使して相手を言い負かせてマウンティングする類の議論は死ぬほど嫌いである。頭の回転が速い人が有利になり、私みたいに腰を据えて考えるタイプの人間には不利、というか売り言葉に買い言葉になってしまい本意と反する言葉が出てしまうのでとにかく苦手で嫌いである。
またツイッター上の議論について、ほっしーメモ(@hossymemo)さんにはこう書かれてある:
まったくもっておっしゃる通りだと思う。ツイッターでは文字数が少なくツイートが即興性を求められるためどうしても感情的になりがちである。意見をこうしてnoteに書いているのもそのためである。
さらに苦手で嫌いなケースは、「自分の非を認めることが悪」という種類の議論である。こちらが謝ったら嘲笑するような相手と議論をしても最適解は何も生まれない。
また、仕事みたいに最適解を見つけるための議論なら行うとしても、最適解を見つけてもどうしようもない類の議論、例えば政治に関する議論や、作品の良し悪しに関する議論とかは最も苦手であり嫌いである。
政治については自分の都合のいい事実だけを取り上げ、そうでない事実を間違っていると主張すれば理論関係なくいくらでも自分の正しさを主張できるし、たとえ議論して決着が出たとしても政治家がその議論を見ている可能性は極めて低い。
一方、作品の良し悪しについてもスポンサーの収入額や興行収入という指標では語れるかもしれないが単に次の作品を作るだけの収益があるかどうかという話にすぎず、作品の良し悪しとは別物である。作品の良し悪しとは特定の軸による評価にしかすぎないため結局はその軸を選んだ者の主観に帰結する。だから結局は好き嫌いという評価でしかなく、その評価も時々刻々と変わる。また、議論するにあたって重要な「何の最適解を求めるための議論か」、勝利条件が何かというのがわからない議論を行っても、最適解は結局見当たらず議論が平行線になるだけであり時間の無駄である。もちろん論客としての強さを見るためだけの議論なんてこちとら御免である。
なぜ議論が苦手か
このようなことを書くと最強の論客はポジショントークで「そんなもん自分の能力不足のせいではないか」と反論を返してくるかもしれない。実際、自分もそう思っていた節があったため、質疑応答に即興で回答する能力に関する会社の研修を受講した。その研修では、
即興性を高めるなら内容の正確さを多少犠牲にすべき
とのことだった。「自分の言ってることが本当に正しいのだろうか」とためらった時点で反応が遅れてしまう。内容の正確さを犠牲にする代わりに、正しさについては相手との議論の中で修正していけばよいとのことだった。
しかし、新人時代に私は当時の直属上司から「正しいことを言え」と何度も怒られたことがある。パソコン通信でも「一度調べてから書け」と注意されたこともある。そのことを研修の先生に話したところ、「あなたの会社は上司の権力が強すぎる」と返され、納得した覚えがある。
確かに今振り返ってみると、その直属上司はパワハラを行っていた節があった。もう数十年前のことだからパワハラ扱いはされなかったが、直属上司に「休みの日に仕事したか、または遊びに行ったか」と聞かれたとき、寝ていたと私が答えたら突如怒り出して「貴様は今まで扱ってきた部下の中で最も出来損ないだ」と言われ、自暴自棄になった覚えがある。なまじその直属上司のことを信頼していただけに(今ではもう信頼どころか軽蔑すらしているレベルだが)、自分の人生を否定されたというトラウマがある。
このように上司やパソコン通信の人など身近な人のパワハラが強すぎると、間違うことを恐れて内容の正確さを気にするがあまり、話が長くなったり質問に即答できなかったりすることが多々ある。別の研修で話の長い受講生の方がいたが、話を聞くにつけ上司から強いパワハラを受けたのが原因だとしか思えなかった。
その研修のおかげでだいぶ即興性は上がったと思えるが、その議論にしても内容の正確さについて恨みっこなしに相手と修正し合うことが前提条件であり、揚げ足をとる、つまり自分の優位性だけを主張するような相手との議論はやはり苦手な状態である。
おわりに
以上、なぜ私が議論苦手かについて語ってきた。このnoteが議論というか口論嫌いの人の気持ちを理解する一助になっていただければ幸いである。また私との口論を望む人が減ってくれることを願うばかりである。